説教ノート(ある信徒の覚え書きより)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年6月1日

『主にあって死ぬ者の幸い』

    井川 正一郎 牧師

黙示録14章9〜13節

中心聖句:

また私は、天からこう言っている声を聞いた。
  
「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ者は幸いである。』」
御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことが出来る。彼らの行いは彼らについて行くからである。」(13節)

教訓:召天。主にあって死ぬ者は幸いなことである。


導入

 今日は召天者記念礼拝の日です。本日の「聖戦」誌にも書かれていますように、召天者記念礼拝は、召天された方を記念する礼拝です。本日のメッセージに入ります前に、この「記念」とはどの様な意味なのか、短く学んでみましょう。

「記念」とは、聖書的に見ますと4つの意味があります。

1)その人がいかなる人であったかを思いめぐらすこと。

 つまりその人の人となりを偲ぶことです。

2)その人がしたことを思いめぐらすこと。

 家庭に対して、職場に対して、隣人に対して、社会に対して、国家に対して、その人がいかなる行為をしたのかを思いめぐらせます。

3)その人がしたことの中心にあったことは、何であったかを記念すること。

 クリスチャンにとっては、主イエスに対していかなる事をしたのか。その人が主の前にどの様に貢献したのか。そのことを思いめぐらし、主御自身を覚えさせていただくことです。

4)その人の歩みを範として、足跡にしたがうこと。

 過去を省みるだけでなく、その人の行いを範として、私たちもその道を進むことを決心すること。

 この記念の日のメッセージの中心は、主にあって死ぬと言うことは、決して悲しみのことではなく、むしろ幸いなのだ、ということです。召天された方々は、主と結びつく喜びを持っておられた方々でした。今日、メッセージとして神様がなぜこの事をお与えになられたのか、以下、3つの点から学んでみたいと思います。


1)主にあって死ぬ者は裁きにあわないから。

 全ての人間は、死から逃れることはできません。死後には、その人の信仰の有無や行いに応じて、審判がくだされ、然るべき裁きを受けることになっています。しかし、主キリストを信じて死ぬ者、すなわち主にあって死ぬ者には、この恐ろしい裁きはキリストのあがないによって免除されています。なぜなら、死は人間の罪から来たものであり、キリストの十字架は、その罪をあがない、信じる者が救われるからです。この意味で、キリスト者は永遠のやすらぎを得ることが出来るのです。

 死には、罪に対する報酬という意味以外にも、4つほど具体的な意味があります。

1)肉体的・物質的な命の終わり:肉体から魂が離れること。

2)(神様から与えられた恵みである)悔い改めのチャンスが取り去られること。

3)主の臨在の中に入る扉。

4)(信仰者は免れる)魂の回復が不可能となる出来事。

 信仰者にとっての死は、以上のことからもわかりますように、ある意味で一番良いところに移される事なのです。言い換えれば、ある部屋から、完璧に整った部屋に移されるようなものなのです。

 このように神様の臨在の中に移された方々と、同じ恵みを頂けるよう、今日本当の意味で召天された方々を「記念」しましょう

2)神様の公平さに与ることが出来るから。

 「しかり、...彼らの行いは彼らについて行くからである。」

 この言葉の意味することは、神の前に於いては、行いの報いはその行いに応じてなされる、ということです。

 つまり、信仰を持って、神様の御前に召されたものには、良い報い、世にあって神をかえりみず、悪に身を任せたものには、厳しい罰という報いが待っているのです。

 神様は、義なるお方であり、人の行いを秤で量るように、公平に見られる方です。世にあっては、正直者が損をし、悪者が栄えるかも知れません。しかし、その行いの報いは必ず、神様がなされるのです。一時的には、正しいものが損をしているように見えるかも知れませんが、神様の時間的尺度から見ますと、正しいものは正しく扱われ、悪者はその報いを受けることになっているのです。

 主にあって死ぬと言うことは、死後必ず正しく評価を受ける、と言うことを意味しています。

3)天国の恵みを地上で前味わいしたから。

 先程から述べている神様の恵みは、何も天国だけで味わえるものではありません。じつは、この世に於いても、神様の恵みを前味わいすることが出来るのです。その恵みは、天に於いて味あうことが出来る恵みのほんの一部に過ぎないものですが、それでも人間がこの世で味会うことが出来る最大限の恵みなのです。

 この点については、今日交読した詩篇23篇を再びお読みくだい。「私には乏しいことがありません」−この詩篇は、ダビデが生きている時に味わった神様の恵みを証しした大変美しい詩(うた)です。

 天に帰られた方は皆、すばらしい霊的資質を持っておられ、地上に於いてこのような恵みを味わっておられました。この恵みはまた、今生きている私たちも味あうことの出来るものです。


最後に、今週のメッセージの実践的側面についてお話ししましょう。

1)今日、本当の意味での記念をしましょう。

2)召天者の方と同じ道を、今日から歩ませていただきましょう。

これらの事を胸に留め、一日一日歩んでいくことが、大切なことなのです。


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