説教ノート(ある信徒の覚え書きより)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年6月8日

「それを我に持ちきたれ」

    蔦田 直毅 牧師

マタイの福音書14章13−21

中心聖句:

 イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが5つと魚が2匹よりほかありません。」

すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」

そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、12のかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男5千人ほどであった。

教訓:神様の前にありのままに持っていくとき、恵みと祝福をくださる。


導入

 イエス様が場所から場所へ多くの教えをなさったこと、すばらしい御業をなさったことが福音書には記されています。多くの群衆がイエス様の話を聞きたいと集まってきたのです。生きた聖書の教えがイエス様によってなされているのでなんとしてもそれを聞きたい、病気の人はなんとかしてイエス様に直していただきたいと集まってきたのです。これはイエス様の御生涯の中で決して珍しい出来事であったわけではありませんでしたが、この時は夕暮れに至るまで人々がみじろぎもしないでイエス様の話に聞き入っていたのです。弟子たちが心配してイエス様に群衆を解散させて食事をさせるように進言したのです。イエス様は弟子たちに「あなたがたでやってごらん(食事を用意してごらん)」と言われました。しかし、男の人だけで5千人、女の人や子供もあわせるともっと多くの人がいたと考えられます。弟子たちにはとても手におえない人数です。他の福音書では、ある弟子が「200デナり(1デナリは一人の人の一日分の給料に相当)でも足りません」と言ったことが記されています。 そこで、イエス様は「あなたがたのところには何があるのか」と問われ ました。そこで、アンデレというお弟子さんが大麦のパン5つと魚2匹のお弁当を持った少年を連れてきました。そして「これよりほかにありません。」との報告をしたのです。イエス様は「それをここに持ってきなさい」と言われました。


イエス様はどのようなお祈りをされたのでしょうか、どのような感謝をささげられたのでしょうか。

 いただいたものについて感謝するということをイエス様が見せてくださいました。イエス様が感謝をされた時、それはまさにまだ5つのパンと2匹の魚でした。5千人の人たちはどのような心でそれにアーメンと和したことでしょうか。しかし、イエス様のお祈りには特別な恵みがあったようです。どんなお祈りをされたんだろうか、私たちはそれを思うことです。それを思うと本当に私たちのお祈りの乏しさということを覚えます。集会の中でも、家拝の中でも、個人のお祈りでも、本当に人々が満ち足りるようにお祈りができる祈り手でありたいと願うことであります。


  私たちの前に広がっている必要がどんなに大きなものであっても小さなものであっても、我に持ちきたれと仰せられる方のもとにまず持っていくこと。

 ある人は問題が大きくなってから神様のもとに持ってきます。問題が小さい時には自分の力でなんとかしようと思うからでしょうか、問題がだんだん大きくなって自分の力ではどうにもならなくなってから神様のもとにやって来ます。小さな子供が絡めた糸を親のところに持ってくる時のようです。絡みはじめた時に持ってきてくれればよかったと思うことがあります。
 イエス様はこんな小さなことにと思われることにも耳を傾けてくださるお方です。物乞いをしていた人の叫びを弟子たちは黙らせようとしたのですが、イエス様は聞いてくださいました。幼子を連れてきた人たちを弟子たちは追い返そうとしたのですが、イエス様は幼子を引き寄せて、膝の上に抱き祈ってくださいました。イエス様は一番小さなことにも耳を傾けてくださるお方だということを知っておくことは大切なことです。少年の出した5つのパンと2つの魚はこれよりほかにありませんといえるようなものでした。しかし、イエス様はこれを祝して多くの人の幸いの基としてくださったのです。


自分がもっているものの大きい小さいにかかわらずイエス様のもとに持っていくときにそれが祝福の基になるということです。

 賜物、証し、奉仕、献金、それらは皆神様から頂戴しているものであることを忘れてはなりません。神様からしばしの間、良きものを預けていただいていることを覚えるときに、「私はこれだけしかもっていません」と言うのは「神様がこれだけしかくださっていません。」と言うことなのです。神様は私たち一人一人にふさわしく恵みを備えてくださっているのです。与えていただいているものを精一杯神様の前に持ち出すことを、こんなに大きな恵みはないと覚えることです。昨日、メンテナンス委員会の人たちが教会に来てくださってご奉仕をしてくださいました。お昼の食事をしながら、「きみのために働くは、うれし、喜ばし」と歌いつつ、「自分のために働くのではなくイエス様のために働くのは本当にすばらしいですね」と言っておられた方がありました。まわりで見てた人が言うのではなく、汗を流し労苦してくださった人たちの口からそのような言葉が出ることが尊いことなのです。与えていただいている恵みの中から神様にお返しさせていただくということは大きな恵みなのです。神様の前に多くの人々が献金をしている人々の中でレプタ2つを献金箱 に入れた女性がありました。皆に見せびらかすように大きな音をたててしている人の献金と、隠れるようにすべてを捧げたこの献金と、どちらが神様に受け入れられたでしょうか。いうまでもなくレプタ2つであります。貧しい中から全部を神様に捧げたその捧げものを神様は尊く値づもってくださるお方です。


「それを我に持ちきたれ」とイエス様が言われている時に、私たちは持っているすべてを惜しみなくお渡しすることです。

 信仰の世界は「ある」か「ない」か、どちらかという世界です。白か黒か、中間というのはありません。神様を信頼する、神様を信じるというときに私たちは全面的に信頼することを言います。公園でボートに乗るときに、陸に片足を置いて、ボートにも片足を置いて、このボートは浮くか沈むかわからないから信用しないといって両方に足を乗せていたらどうなるでしょう。ボートが岸から離れていった時にボートにも岸にもよりかかれずに間に落ちてしまうことでしょう。私たちは神様に拠り頼む、半分世の中に拠り頼むということはできないのであります。 一つの心配は神様にとられてしまうのではないかという不安です。せっかく5つのパンと2匹の魚があるのにそれさえもイエス様に渡したらなくなってしまうんじゃないかとの心配です。しばしば私たちの不信仰はそこにあります。どんな豊かな賜物も奉仕もイエス様の御手に委ねなかったら何の意味もなくなってしまうのです。
 旧約聖書の中にも同じような物語がでてきます。ききんの中で最後の粉と油、それを作ってあとは死ぬしかないという婦人と子供たちのところに神の人がやってきました。「残った粉と油を使ってまず私のところに持って来なさい。」と言いました。「それから、開いている器を近所中から借りてきなさい。」と。しかし神様に全部をお渡しした時に、その粉も油もききんの間中、尽きないほど恵みをもって答えてくださったと書いてあります。


 今日、心の中に救いを必要としていらっしゃる方はおられませんか。自分の心の中に思うように願うように変わっていかない嫌な性格、捨てきれない罪の習慣、どうしても神様よりも世の中に引っ張られてしまう嫌な心、このようなものを持ちながら何とか神様に救っていただきたいと願っておられる方はありませんか。もうちょとましになってから神様のもとに来よう、もう少しまじめになってから、生活が整ってから神様にお願いしてみようと待っていらっしゃるかたはありませんか。それを我に持ちきたれ。ありのままに神様の前に、罪に染まったままの姿でイエス様の十字架にすがるとき、神様は私たちを潔くしてくださると聖書は約束してくださっています。

 聖潔の恵みを必要としていらっしゃる方はありませんか。聖潔の恵みなんてもっと信仰が進んでからだと思って待っていらっしゃる方はありませんか。いつになったらそうなると思いますか。問題があるまま、信仰の年限も、経験も順番も関係ありません。潔めてくださるお方、またそのように望んでおられるお方の前に、飾らないでありのままにすべてを差し出すことがその秘訣であることを覚えましょう。

 今日、ご奉仕や証しをする力を必要としていらっしゃる方はありませんか。みんながあっと驚くようなことをしてやろうと構えていらっしゃる方はないでしょうか。5つのパンと2匹の魚があればよろしいのです。みんなを感動させて罪を悔い改めさせるような証しをしてみたいなあと思うことは罪ではないけれども、それは神様のなさることです。神様がこんな罪人の私に何をしてくださったかを恐れなく語り出すことが大切なのです。

 今日、神様の召しの声を聞いていらっしゃる方はありませんか。神様が「わたしのぶどう畑で働く」ように声をかけていらっしゃるのを聞いていらっしゃる方はありませんか。もうちょっと社会経験を積んでから、もうちょっと英会話を勉強してから。神様の前に繕ってもそのようなことは役に立ちません。このようなものですけれどもよろしくと委ねるとが勝利の秘訣です。

 今日、お祈りの課題をもっていらっしゃる方はありませんか。こんな小さなことでと思うことはありません。こんなお祈りしたら信仰が未熟だと思われないだろうかと心配しなくていいのです。神様はどんな小さなお祈りでも喜んで聞いてくださいます。神様の前にもっていくことをさせていただきましょう。そして、今週、日々刻々の営みにさせていただこうではありませんか。そして、神様がこんなにしてくださいましたとの証しをもって次週、集わせていただこうではありませんか。 


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