説教ノート(ある信徒の覚え書きより)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年6月22日

「キリストの者たるによりて」

    蔦田 直毅 牧師

マルコの福音書9章30−50節

中心聖句:

  あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。

教訓:イエス・キリストにつけるものの光栄を覚え,その光栄にふさわしい歩みをしましょう。


導入

 いろいろな出来事が私たちのまわりで動いており、世界が、日本が動いてる、また動かなければならない中にあって、今までの政治や企業の考え方を一新しないとその動きの中から取り残されてしまうという状況になってきています。また、今まで頼ってきたものが頼れなくなってしまう危険や恐れを持ちながら、それでも歩んで行かなければならない昨今、私たちはクリスチャンとして神様の導きを捕らえつつ進ませていただくことが必要と思われます。その公生涯において3年半、イエス様は時を意識しつつ進んで行かれました。イエス様の生涯を見るときに、摂理のうちに一つの方向に向かって進み、限られた期間で弟子たちを育て、お仕事をなさっていかれたのだとみてとることができます。マルコの福音書はイエス様の御業、お仕事について特に記述されています。マルコはペテロのカバン持ちのような立場にあった人で、この福音書においても、ペテロの見たイエス様が色濃く反映されているだろうといわれています。「すぐに」「すぐに」という特徴的な言葉とともに、お仕事からお仕事、ご奉仕からご奉仕に進まれたイエス様のお姿を読ませていただくこと です。
 この章では、イエス様の転機となる出来事が記されております。多くの人の病をいやし、悪霊を追い出し、人々を助けるお仕事をされていたのが、一転、この時から全神経を十字架に向けなさることになるわけです。弟子たちの前で変貌し、イエス様とエリヤとモーセが会見した出来事があり、弟子たちには十分わかっていなかったのですが、ご逝去のことが語られていたのだと記されています。イエス様の十字架の時が近づいてきたのです。それと同時に、不思議なことが起こりました。多くの人がついてまわっていたのに、イエス様が十字架に向かわれた時に、多くの人が離れていったというのであります。それまでは、王様にしよう、救い主としようともてはやしていたのに、イエス様が十字架に目を向けなさった時にあたかも置いていかれたかのように感じたのでしょう、人々が離れて行ったことです。この箇所では十字架の予告の2回目がなされました。弟子たちは心配し、イエス様の身にそんなことが起こるはずがない、受け入れ難い、コメントすることさえしたくないと思われたことです。しかし、イエス様は弟子たちに方向づけを明らかになさいました。
 ここでは、ピリポ・カイザリアからエルサレムに向かう最後の一年間の半ばの出来事であったろうと思われます。弟子たちとイエス様の会話がなされ、イエス様が弟子たちに、確かめておきたい、チェックが与えられていることです。それは、弟子たちが「だれが一番偉いのか」と論じ合っていたからであります。イエス様はそれを小耳にはさんで「何を論じていたのか」と問われました。弟子たちは黙っていました。恥ずかしかったのだろう、と多くの注解者は推察していることです。僕になりなさい、仕えなさい、と言われていても、わかっていても止められない人間の性ということがあったのでありましょう。誰が一番最初に呼ばれたとか、誰がどこどこに連れて行かれたとか、気をつけませんと教会の中でも誰が一番偉いのかとの議論が持ち上がってしまうことです。教会は誰が上だとか下だとか論じられる場所ではなく、奉仕者が担い、牧者が担い、その下でキリストが十字架をもって担っていてくれる逆ピラミッドの構造になっています。私たちは愚かな競争をしないで、お互いにイエス様に仕えるものにならせていただきたいと思います。
 ヨハネは老いてからは温厚な人柄で知られる人ですが、若い頃は血気にはやっていた人のようです。「雷(いかづち)の子」とイエス様にあだ名されていることです。そのヨハネが、イエス様の御名によって悪鬼を追い出している人を止めさせた、私たちと違う人だから、と言うのです。イエス様は止めさせないでよいと言われました。自分たちと違うから排除するという傾向は日本では特によく見受けられます。学校の制服が違うから、同じグループじゃないから、なわばり争い...。イエス様はだめだと仰せられました。
 また、イエス様の弟子だからというので良い行いをしたものには神様の良い報いがあることが言われています。「キリストの弟子だからというので」という言葉に訳されていますが、新改訳聖書の注釈を見ますと「キリストのものであるという名目で」と直訳されています。さらに文語訳では「キリストの者たるによりて」、英語の訳では「キリストに所属している」等があります。この箇所から私たちが覚えさせていただきたいことを3つの角度から考えさせていただきたいと思います。


(1)クリスチャンはキリストのもの、所属していることの光栄と幸いを覚えましょう。

 クリスチャンはキリストにつがれたものです。ちょうど植物に接ぎ木をするように、芽のところに別の植物を接いで、新しいものを育てるように、命をもらってキリストに接がれたものだと聖書に書かれてあります。これは永遠の命をいただいている、イエス様と共同相続人としてその流れを汲ませていただいていること、また、神様が守り、必要なものを供給してくださる関係、あるいはキリストの家族とされたという意味があります。キリストの弟子となることはキリストについていって訓練をうけるということと同時に、イエス様に似たものにされるということが含まれています。イエス様につけるものとされたゆえに私たちも与らせていただく光栄が与えられていることを覚えたいと思います。
 一方で注意しなければならないことは私たちを見ている人があるということです。私たちのあり方、言葉遣い、態度のなかに彼らはキリストを見るのです。キリストが本当に私たちを新しくし、人格を変貌させていくのかを見てとるのです。 私たちが、イエス様を代表させていただいている光栄に与っている。これがキリストのものであることの内容です。


(2)クリスチャンがキリスト者であるがゆえに通らなければならない困難があることを知るべきだ。

 冷ややかな水一杯が本当においしく感謝に思われる程の戦いがあるということです。イエス様は弟子たちに何の保証もなさいませんでした。5000人の給食の時には弟子たちもお腹をすかせていたことでしょうし、税金が払えなくて魚を釣ったこともありました。(イエス様は魚を釣りなさい、釣った魚の口にお金が見つかるからと仰せられた。そして本当に見つかった。)伝道のために町から町、村から村に歩いているものに水一杯を与えてくれるそのような小さな奉仕だけれども、それも覚えられている、そして、小さな奉仕を受けつつ支えられなければならないそのような道が光栄に与る道だということです。
 私たちを囲む社会は刻々に変化いきます。洗礼を受けることも国賊だと言われた時代がありました。今は迫害のようなものはありませんが、末の時代には安穏としていられなくなることが聖書に預言されています。イエス様につけるものの光栄とともに、苦しみ、戦いということを覚える必要があるわけです。クリスチャンは貧しくなければならないということはありませんが、教会の歴史を学ばせていただくときに、本当のホーリネスなく豊かになった時には必ずといってよい程腐敗や堕落が伴っています。もし私たちが富を得ていないのだとしたら、富の用い方を知らないからかもしれません。神様から信頼されて、神様の栄光を表すために10タラントを任される教会とならせていただきたく思います。


(3)キリスト者であるがゆえに気をつけなければならないこと。

 私たちがキリストにつける者であるがゆえに排他的な態度をとることです。イエス様は世に対して剣を投ずるためにおいでになった方です。安楽な生き方と対立し、妥協がないために譲れないこともでてきます。ゆえに排他的なものを含んでいます、と同時に、神様は罪に苦しむ人々のために一人子を世にお送りくださったことを忘れてはなりません。罪に汚れた人をそのままでいいよと言うのではありませんが、キリストの愛から洩れる人をこちらの側でつくってはならないことです。
 しばしば他の宗教との比較においてもキリスト教の排他性が指摘されます。宗教人の間でも歩み寄りの動きがあり、山に登る登山道にたとえられたりします。(いろいろな登山口はあっても、どこから登っても頂上に着くとのたとえ。)そのほうが仲良くやっていけるように思えます。しかし、
聖書はキリストの十字架の他に救いはないと宣言しています。そこにしか救いはないと信じるからこそ海を越えて宣教師を送り出し、また自らの必要を顧みずにそれを支え、そして教会がつくられ続けてきたこと思うときに、なぜそれが排他的であるのかが分かります。
 しかし、ここで言われているのは、そこから敷延してくるようで全く質の違う排他性です。キリストにつける者であるがゆえの熱心さ、そこにある狭さ、狭隘さということです。ある一つの教えられたパターンや形式に固執することによって、他を受け入れることができないことです。
 キリスト者の成長と人間的な成長との違いを知らせていただきたいと思います。キリストの成人となることと、私たちが大人になることは違います。キリストにある成長には一段違う恵みがあります。そこから何か自分がすぐれているとか、他に勝っていると思ってしまう危険があります。大人であることと信仰が成長していることとは同じではありません。子供だといってばかにすることも警戒しなければなりません。
 キリスト者の完全は人間的な完全ではなく、愛の完全です。その心のうちにあって動機の完全が問われる時に、まさに幼子のごとく、疑いや、人と人との比較だとか、自分の中のもくろみや算段を度外視して、純粋に信頼し、純粋に捧げる心をイエス様は見ておられることを忘れてはなりません。私たちは弟子たちがしたように、幼子たちや弱い者、力のない者に対して偏見をもって裁いてはならないことです。イエス様はそれを全部受け取っていてくださいます。それゆえに私たちも受け入れられていることを覚えましょう。



しめくくりに確認しましょう.


1)私たちは本当にキリスト者となっているか
 キリストのものですか、世のものですか?

2)私たちの教義の中心がどこにあるか
 誰が偉いか、これが弟子たちの興味でした。私たちの心のありかを問われる時に多くの方は「神様第一です」とおっしゃるでしょう。それは感謝なことです。しかし、聖日を勝ちとることはどうですか、伝道会に席を占めること、祈祷会に出席することはどうですか、時間の用い方、財の用い方、子育ての仕方、事業の方向付けなど、何が中心ですかと問われる時にキリストが中心ですと言えるでしょうか、光を当てていただこうではありませんか。

3)キリスト者にふさわしい生活がなされているか
 お互いが和合して暮らしなさいと教えられています。キリスト者相互によってきしみ音があってはならないことです。
 世に対しては塩の働きです。キリストにつける者というのは特権意識ではなく塩の働き(腐敗させない)をするためなのです。
 弱い者、幼子たちに対する心遣いを忘れないお互いとさせていただきましょう。特伝のために祈ってまいりました。新しい方々に対してもキリストにつける者としていただいた恵みを証しさせていただき、イエス様の広さをもって受け入れさせていただこうではありませんか。


 今週、イエス様につけるものとして、イエス様の一部としてスタートさせて頂きましょう。


 created on 970622 (by S. Hebisawa)