説教ノート(ある信徒の覚え書きより)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年7月6日

「此の小さき者の一人」

    蔦田 直毅 牧師

マタイの福音書18章1−14節

中心聖句:

  このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

教訓:イエス様の子供に対する思いと教会学校について学ぶ


導入

 先週は神戸の事件で社会的に大きな議論がまき起こった週でした。多くの人が、被害者だけでなく、容疑者として逮捕された者も子供だったことに、大きな衝撃を受けました。私たちは、週刊誌的な興味本位の立場でこの事件を捉えるべきではありません。私たちの取るべき立場は、もし我々がイエスの立場であったらどの様にこの出来事をご覧になるか考えそのように捉える、と言うものです。

 今月は教会学校を特別に憶える月です。今朝は、幼子を大人たちの前に立たせてイエスが語られた言葉を中心に、二つのことを学ばせていただきたいと思います。



(1)イエス様は子供を愛された。

 イエスは子供を愛されました。聖書には沢山の子供に関する記述がありますが、イエスは常に子供たちに対して愛情ある姿勢でのぞまれました。その姿勢のポイントとなる点は、子供たちを単に未熟な人間として扱うことをせず、神様から与えられたひとりの人格として尊重されたことです。つまり、たとえ幼子であっても、彼らは神の似姿に作られたひとりの人間として御扱いになったという事です。

 イエスはむしろ子供たちの心のあり方をたたえられました。大人だから神様のことをよりよく理解できるというのではなく、むしろ逆に子供の純粋な心で持つ信仰の方が尊いと説いたのです。この点に関してイエスは、子供たちが神様から愛される存在であることを知っておられ、またそのことを強調されたかったのです。イエスご自身も、神様から豊かな愛情を注がれて育ちました。(この愛情は昨今流行の「かわいい、かわいい」と言う愛情のかけ方ではありません。)子供たちは神様から愛されるだけではなく、また自ら進んで神様に近づいていくことができる存在でもあります。私たちも子供を見る際に、彼らが神様の愛を一身に受け、また自ら神様に近づける一人前の人格を持った存在である事を、よく把握しておく事が必要です。



  今月は教会学校を特別に憶える月としたいと思いますが、この機会に教会学校についていろいろ整理してみたいと思います。

 教会学校は元々イギリスのメソジスト運動から派生した制度です。メソジスト運動の祖、ジョン・ウェスレーは当時社会的な腐敗がはびこっていたイギリスにおいて、様々な運動を行いました。例えば、教会の伝道会などで用いられるトラクト(求道者に対する読み物)を生み出したり、特にそれまで省みられることのなかった階層の人々(囚人、炭坑夫、下級労働者、貧民層、子供)などに対して次々と積極的な行動を起こしていきました。その一つに、労働者階級の子供たちにも信仰と教養を教えるために、教会を中心とした子供たちのための集会を始めました。これが教会学校や日曜学校の最も初期の形です。その後、18世紀後半には、ハンナ・ボールが聖書学校を開き、「日曜学校の父」と呼ばれるグロスターの一雑誌編集者、ロバート・レークスにより組織的に日曜学校が運営されるようになったのです。このような中で、それまでは一般的な教養を備えることができなかった労働社会層の子供たちに、基礎的な学力を身につけさせると言う役割もあったようで、この考えは、現在の義務教育の考えに引き継がれているのです。日本は、明治時代に欧米諸国の義務教育制度を勉強して導入いたしましたが、この際その根本となるキリスト教精神の部分をそぎ落としてしまいました。全てではないにしろ、現在の義務教育の問題の一つは、そこにも存在するのではないかと思われます。また、最近の日本ではステータスシンボルにもなっているミッションスクールがたくさんありますが、これらの学校の本来の目的は、日曜学校の延長線上、つまり子供たちに神様の恵みを教えること、にあるのです(左図:ミッションスクールの理想的教育像)。

 アメリカの教会においても教会学校・日曜学校は重要な意味を持っていました。アメリカのいくつかの大きな伝道発展運動では、教会学校活動を重要な宣教活動として用いられていました。また、子供だけでなく大人にも教会学校が開かれ、福音宣教に大いに役立ちました。教会学校の教師は、牧師に準ずる存在として認められていました。


(2)イエス様は子供のようになることができるものを愛される。

 冒頭の箇所で弟子たちは、天国では自分たちの内で誰が一番偉くなれるのか、などという不毛な討論をしていました。このようなときイエスは、小さい子供を呼び寄せて、

「あなたがたも悔い改めて、子供たちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」(18章3節)

とおっしゃられたのです。このことは何を意味しているのでしょうか?

 イエスはここで、弟子たちに信仰者として大切なことは神の前に悔い改め、子供のようにへりくだった心を持つことであると説いたのです。この悔い改めは、大人がいろいろなことを視野に入れて打算的に行う悔い改めではなく、子供のように純真な心で180度自分を変えようとする真摯な悔い改めを指します。



しめくくりに今日憶えさせていただきたいことをまとめてみましょう。

1)我々に姿勢を省みて、子供のように自分を低くして神の前に侍る信仰を持っているか、今一度吟味させていただきましょう。これは自分と神様の間だけの問題ではなく、他の方々に対しても心から謙遜に向き合うことができるようになりましょう。そうすることで、神様の恵みを他の人に伝えることができます。


2)
子供一人一人を神様に愛された一人の人格として認め、神様が与えられたと同じような愛情を持って、子供に接していきましょう。


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