説教ノート(ある信徒の覚え書きより)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年7月13日

「舟の右側に網をおろしなさい」

    井川 正一郎 牧師

ヨハネの福音書21章1−14節

中心聖句:

 シモン・ペテロが彼らに言った。「わたしは漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」 イエスは彼らに言われた。

「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」

そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

教訓:主イエスのみ言葉に従うとき大漁と祝福がある。


導入

 上半期の歩みにおいて5月のペンテコステ(聖霊が人々に降臨してくださった出来事、あるいはそのことを記念する期間)から6月にかけての講壇は、特別な営みの連続でありましたが、今日は久しぶりに通常の講壇にもどらせていただきたいと思います。ここ数回の説教において”湖に関するメッセージ”がいくつか取り次がれて参りました。はじめには「向こう岸に渡ろう」との題で、イエスさまが弟子たちに湖に渡るように命じなさったところが、激しい向かい風に悩まされた出来事について学ばせていただきました。すなわち、イエスさまの御心のうちにあって、激しい向かい風に遭うことがあっても、それは向こう岸に渡ることの妨げとはならず、かえって弟子たちの信仰を増すために用いられたということでありました。また、「湖の真中で漕ぎあぐねている」との説教では、イエスさまに命じられて湖の真中まできているけれども漕ぎあぐねている、前に進むことも戻ることもできないでいる弟子たちの姿を通して、イエスさまは私たちを決して見捨てられないお方であられることを学ばせていただきました。今日も湖に関するメッセージです。上半期の歩み を反省させていただきつつ下半期に新しく歩み出させていただきたいと思います。
 3節「しかし、その夜は何もとれなかった」とあります。弟子たちは夜通し働いたのに何も収穫がなかったというのであります。私たち、上半期に一生懸命働いたのに何も結実が無かったという方はおられないでしょうか。豊かに祝福された、結実が与えられたという方もあられるでしょう。今日のメッセージは、上半期に何もとれなかったという人にとっては直接的な励ましが与えられるでしょうし、祝福が与えられた方にとりましても、この原則に従ってゆくならば、さらに祝福が与えられるとの励ましとなることと思います。
 今日の中心的なお言葉は、6節「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」です。イエスさまは何もとれなかった弟子たちにもう一度湖の中に進むように命じられました。大漁の恵み、豊かな恵み、主の御旨に自らをあてはめてゆく限りこの恵みに浴させていただくことができるのです。この約束が今日の中心的なメッセージです。2つのおおきな題目に分けて思いめぐらさせていただきたいと思います。一つは「なぜ弟子たちは何もとれなかったのか」ということであり、もう一つは「なぜおびただしい魚をとることができたのか」です。


(1)なぜ何もとれなかったのか

1.十字架から逃げたから

 21章はイエスさまの十字架の後の出来事が記されてあります。3度イエスさまを否んで逃げたペテロを代表として、イエスさまを見捨てた弟子たちでありました。それを悔やんでもいたことです。
 3節「わたしは漁に行く」ということについていくつかの解釈がなされております。1つ目は、彼らは召命を受けており漁師に戻るはずはない。だからここでは休暇のうちに漁をしていたのだ。とする解釈です。2つ目は、弟子たちは漁師として仕事をしようとしている。もちろん信仰を捨てたわけではないがイエスさまの死を悲しむあまり、イエスさまの使命を一時離れてもとのお仕事についてしまっている。との解釈です。(説教者もこの解釈です。) 3つ目は、牧者としての務めをしているが、食べるために漁をしていた。というものです。いずれにしても十字架から逃げ出したことに違いはありません。弟子たちは元の漁師のつとめに返っていたのです。おそらく、イエスさまに対する申し訳なさの気持ちで一杯ではなかったかと思われます。裏切りを悔い、悲しむ弟子たちではありますが、時はすでに遅し、イエスさまは十字架に死なれてしまった。やるせない気持ちをたくさん持っていたことでしょう。主イエスとと歩む目的も人生の目的も失いかけていた弟子たちの姿をここに見ることです。「わたしを離れてはあなたがたは何もすることはできない」ヨハネ15章のお言葉を思い起こすこと ですが、弟子たちの状況はまさにこのような状況でした。
 十字架の道には苦しみ、悩み、痛み、戦い、誤解、そしり等があるでしょう。しかし、十字架の道を歩む者だけに約束されている恵み、祝福、勝利(しかも復活の勝利)が約束されていることを知らせていただいている私たちであります。私たちは、十字架を避けてしまっているか、避けていないか心を吟味させていただきたいと思います。十字架を避けている者には結実や大漁は約束されておりません。上半期の歩みにおいて皆さまはいかがでしたことでしょうか。もし十字架を避けておられたとしたら、今日、立て直させていただきたいと思います。


2.自分たちの能力や経験だけに頼っていたから

 弟子たちは元に戻ってしまっておりました。やる気を失っているからでしょうか。つまずいてしまっているからでしょうか。いろいろな理由があることでしょうが、悲しいかな、私たちも元に戻ってしまうということがあり得ます。
 はじめに戻ってしまっているというのは、イエスさまにお会いする前の状態に戻ってしまうことを意味します。本当に頼るべきお方から離れてしまっていますから、頼るのは自分の能力や経験ということになってしまいます。しかし、このような経験や勘には”はずれ”もあることを私たちは知らされています。(弟子たちはイエスさまにお会いする前の弟子たちに戻っていたことですが、イエスさまはもう一度現れてくださり、同じように大漁を経験させてくださいました。ルカ5章参照)
 主から離れている限り人間は結局同じようなところに戻っていく、同じようなことを繰り返すことになるわけです。限りある自分の能力や経験だけに頼ることや、財産やお金、物質に頼りきってしまうところに大きな落とし穴があることを私たちは知らされます。


(2)弟子たちはなぜおびただしい魚をとることができたのか

1.イエスさまに再び本当の意味でお会いしたから

 イエスさまに結びついたからこそ大漁の恵み、祝福がもたらされたわけです。
 ある意味でこれは単純な真理であります。しかし、わかりきったこの真理を自らにあてはめるかどうかで雲泥の差があります。お互いイエスさまに正しい信仰をもって結び付かせていただきたいと導かれることです。主イエスさまに対して正しい関係にはいらせていただくことは、弟子たちの姿が再びイエスさまに受け入れられている状態になっていったことが意味されます。ペテロという弟子のことを考えてみましょう。彼はその時どうしたでしょう。ヨハネが「主です。」と言った時、彼は裸であったので、上着をまとって湖に飛び込んだと記されています。主イエスを3度否んだことに対する気恥ずかしさか、彼は上着をまとって湖に飛び込んだのです。イエスさまに受け入れられる状態はペテロが上着をまとった姿に表されているように思われることです。「上着をまとって」というペテロの行動の中に主と正しく向かい合う姿を教えられる気がいたします。元に戻っている姿から回復していただくためには”上着”が必要なのであります。それは、悔い改め、信仰、聖き心、聖なる礼服が意味されることでしょう。私たちは今日、湖に飛び込む必要はありません。しかし、”上着”をまとい主の御前 に出ることの大切さを教えられることです。私たちの姿はどのような姿でありましょうか。私たちは主の前に出させていただくために、身も心も整えさせていただきましょう。


2.主のみ言葉に従ったから

 御旨の通りに実行させていただいたということであります。主イエスさまとの関係が正しくされることだけでもすばらしいことですが、主はお言葉をかけてくださるというのです。み言葉をいただくこと、み言葉に従うことは祝福の基礎、土台であります。
 6節「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」
 当時、舟の右側に網をおろすことは専門の漁師はあまりしないやり方だといわれています。今までとは違う方法、知恵と工夫の大切さを思わされます。今携わっている人間関係を別の観点から見てご覧なさい、解決の糸口が見つかるから。神さまの見ておられる観点から、仕事や人間関係を見てご覧なさい。今までのマンネリでなく少し工夫してご覧なさい。...イエスさまのお言葉は心の深いところに語ってくださいます。お言葉をいただく者は人生の航路に回復され雄々しく進んでいくことができます。



生活への実践、適用

1.何もとれなかったという原因は何か、ということを素直に見つめ直そう
 悔い改め、反省、自己吟味が必要なお互いでありましょうか。

2.聖なる上着をまとい、主のみ言葉に柔らかく従っていきましょう
 ”柔らかく従う”というのは「柔順」の意味であります。その意味するところは「すぐに反発せず、また、盲目的に従うのでなく、まったく拒否を示さずに、何か深い意味があるのかなと深く考えながら受け入れつつ従うこと」です。


 今日そのような姿勢をとらせていただきながら、今週一日を歩み出させていただきましょう。


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