説教ノート(ある信徒の覚え書きより)

聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年8月3日

「主の御名の力」

 蔦田 直毅 牧師

ローマ人への手紙10章全

中心聖句

聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

教訓:イエスの御名は神さまの御名であり,私たちの救いである。


導入

  先日、ナザレ会の兄弟から手紙をいただきました。「海外で仕事をさせていただくのですが、健康の戦いを覚えていますので、御名を汚すことのないようにどうかお祈りください。」との一文がありました。「御名を崇める」とか「御名を汚す」とかの表現を私たちはしばしば用いることですが、どういう意味でそれを用いていることでしょうか。クリスチャンに とって「キリストの御名」は切っても切れない関係にあり、私たちの生活 や考え方の基本となり、基準となっていることです。しかし、それが単に失敗をしないように、うまくいきますようにという程度の意味合いで(クリスチャン用語として)用いているとしたら、私たちは気をつけなければならないことです。なぜなら御名(名前)は実体を表しているからです。日本においても「名は体を表す」ということが言われます。例えば私が「鈴木さん」「田中さん」と言った場合には必ずその名前を持った方のことを意識しています。しかし、私たちが「イエスさま」という御名を唱える時に、また、イエスさまの御名によってお祈りをしたり、御名のためにという時に、私たちの心が本当にイエスさまご自身 に向けられているだ ろうかということが問われているわけです。

 今日の箇所はローマ人への手紙で、新約聖書の半分を書いたパウロ先生 がローマの教会の人々に宛てたものです。この手紙の特徴は、牧会のことよりも教義のことについて(義と認められるとはどういうことか、など)理論的に整理していることです。ローマの教会は他の教会と違うところが ありました。他の教会はパウロ自身が開拓したのですが、ローマは行ったことがない場所でした。そこでは、迫害によって散らされた人々が移り住んでおり、家庭を開放して「家の教会」を形成していたのです。手紙が書かれた時にはローマ公認の宗教でもなかったわけです。パウロはローマにある一つ一つの教会ということを意識しながら、信仰を整理し、励ますことを目的としてこの手紙を書いたのであろうと思われます。9章から11章は彼が生まれ育ったイスラエルの民族について述べられている部分であります。この手紙を、お魚を3枚におろすように整理させて頂くと、

  1章から8章   : 教理について

  9章から11章  : イスラエル民族について

  12章から15章 : 実践の問題

となります。10章は、イスラエルの民族を意識しつつ、ユダヤの人々は律法が与えられていることに誇りを持ち、律法によって義とされることに一生懸命しがみついているけれども、今はイエス・キリストに対する信仰によって義とされる道が与えられているのだということ、また、福音によって義とされることにイスラエル人と異邦人の区別はないのだということが示されています。イスラエル人であろうとも異邦人であろうとも、主の御名を呼ぶものはみな救われるのだという共通の、そして根本的な信仰の中心が記されている箇所です。

 今日、この箇所から「イエスさまの御名」について少しくみ言葉から聞かせていただきたいと思うことです。


 「御名」は「みな」と呼びます。「聖名」と書くこともあります。御名とは一体何でしょう。それは神さまのお名前のことであります。

1.旧約聖書においては

 旧約聖書において御名とは、意味されている人や民族を表すこともあります。一人の人の名前が挙げられる時には、その人の人格や名声、性格や 業績が含まれていることがあります。例えば旧約聖書にモーセという人が出てきます。「モーセ」とは「引き出す」という意味があります。長い間エジプトの奴隷であった民族を解放するために神さまが用いなさった器でありますけれども、この人の場合も名前とそのお仕事が一致していたことです。それほど人の名前には意味があります。まして、神さまの名前という時には特別な意味があるわけです。

 神さまのお名前、神さまの呼び名は神さまが私たちに教えてくださった呼び方なのですけれども、私たちを養ってくださるお方、守ってくださるお方、戦ってくださるお方、力強いお方...という意味あいがつけられているこ とです。

 日本では、いろいろな分業をさせてあげようということでしょうか、交通安全の神様、安産の神様などがあることですけれども、私たちの神さまは、これをしてほしいからこんな神様、こんな名前というのではなく、神さまどんなお方であるかを、神さまご自身が教えてくださっていることです。

 一つの名前を挙げた時に神さまの人格を表すのですけれども、神さま のいろいろなご性質のゆえに「モーセ」のように一つ呼び名だけではなく多くの呼び名を与えてくださっていることです。「天のお父さま」と呼ぶ 時には、つらい中、苦しい中から見上げて助けてくださるお方としてとらえることもできれば、意気揚々と戦って勝利させてくださるお方としてとらえることもできます。それは私たちの状態にもよることです。そのどんな状態にも、私たちの必要を満たしてくださるお方として、神さまは私たちにたくさんの名前を与えていてくださいます。そのお名前は神さまが私たち人間に対してどういうお方であってくださるかを表すお名前なのであります。

それゆえに、旧約聖書の十戒の中にも神さまの御名をみだりに唱えてはならないと教えられていることです。神さまに対する畏れゆえか、後代になってきますと神さまの御名である部分を発音しなくなってしまったことです。記録にも神さまのお名前である部分の発音記号が残っていません。へブル語の学者たちは「エホバ」と呼ぶのだろうと予測して、しばらく「エホバ」という呼び名が使われていたのですが、新改訳聖書では御名にあたる部分に主と書いて太字にして「主」とあてはめて用いていることです。

 神さまの御名をみだりに唱えてはならないとの戒めには、御名そのものが神さまご自身という意識があります。御名によって預言するというのは神さまから権威をお借りしてみ言葉を語ることを意味します。御名をもって祝福するとか、御名をもって呪うとかいう時には、神さまご自身の意志が反映されることですから、軽々しく誓ったりすることが許されないのであります。けれども、御名を愛する、御名を呼ぶということは神さまご自身を愛することであり、信頼することを意味します。

私がどこかの会社かお役所の偉い人の部屋に入って行こうとすると、おそらく入口で止められるでしょう。しかし、社長さんの名刺を持っていくとき、どうぞと丁寧に通していただけると思うのです。神さまのお名前をいただくとはそのようなことなのです。

2.新約聖書においては

 旧約聖書においては神さまの御名とされていたところが新約聖書ではイエス・キリストの御名に置き換えられています。イエス・キリストの「イエス」とは「救い」という意味です。

 ピリピ書の2章にこう書かれています。

「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」

 また、使徒の働きの5章には弟子たちが御名を伝えているために迫害を受けた事が記されています。イエス・キリストの御名を伝えていることのために人々が怒ったのだとあります。イエスの名によって語ってはならない、伝えてはならないと戒められ、叱られていることです。

 イエス・キリストの御名ということが弟子たちのメッセージの内容の中心であったわけです。また、イエス・キリストの御名が伝えられるということは、イエス・キリストのご人格と御業ということが伝えられることであったわけです。当然、そのことの中には、十字架とご復活ということが含まれていたわけであります。また、イエスさまご自身もマタイの福音書の最後に、弟子たちに、父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けるようにお命じになり、これから弟子たちがなすべきことはイエスさまの御名に従って働くことだと示しておられることです。

 多くの働きがキリストの御名によってなされています。キリストの御名を原動力としてなされているのです。教会のしている仕事はキリストの御名を背負ってさせていただいていることなのです。クリスチャンが世にあってなさせていただいていることが、直接、間接に伝道に関わるかどうかは別として、お互いが世にあって立てられているということは、イエスさまのお名前を背負って、イエスさまの看板を背負って出ていっているんだということをよく覚えていなければなりません。世の中の人たちが私たちを通してイエスさまを見るのだとういことを忘れてはなりません。


 私たちが与えられている力ある御名をどのように働かせていただくことができるのでしょうか。一言で言うなら、信仰によって、ということなのであります。

1)主の御名を呼び求める者はだれでも救われる

 その御名こそが唯一の、そして、全く私たちを救いたもう神さまが与えてくださった救いの入口であり、拠り所であるということを正しい意味でとらえることです。

ヨハネの福音書1章12節を救いの約束のお言葉として頂いている方は多くあられるでしょう。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」 

イエスさまの御名を呼ぶ者はだれでも救いを、だれでも神の子どもとされることができます。この方以外には、誰によっても救いはありません。「世界中でこの御名の他には、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」と使徒の働き4章には書かれています。 イエス・キリストの御名だけが私たちを救いに導くことのできる力をもった名前であります。

 ここにローマ書を見ますと主の名を 呼ぶ者はだれでも救われるのだと書いてあります。ですから例外なく信じて呼び求める者に力が現される、これが主の御名の特徴の第一です。福音が福音である所以は、だれでも呼び求める者はユダヤ人であろうが異邦人であろうが、アメリカ人であろうが、日本人であろうが、誰でも呼 び求める者が救われるのだ、というそこにあるのです。福音というのは、みんなに、救われなさいと神さまが招きかけておられるということであり、みんなが、その福音に応じることができるチャンスが与えられていることであり、その招きに応じた者が救われるというお知らせなのです。

だれでも、呼び求める者に、例外なく、前に知識があるとかないとかではなくて、その時まで神さまを知っていたとか、知らなかったではなく、誰でも呼び求める者には答えてくださいます。臨終の床に、何名かの方々の臨終の床に立たせていただいて、病床で、イエスさまを受け入れる方々を何人か目撃させていただきました。死を前 にして、誰でも呼ぶ者は救われるんですよ、とお約束の言葉をいただいてすぐに「イエスさま、感謝します」と大きな声で応じられてその次の朝に 天に帰られた姉妹を知らされています。

2)御名のもたらすものは、我らに対する救いであり解決であり、祈りの答え

 御名を持ち出す時に、御名を惜しみなさるお方ですから、変な言い方ですが、働かざるを得ないのです。

 今まで教会学校のキャンプの時、子どもたちと一緒にお祈りしました。

「天候がまもられるように...」神さまはそのお祈りを全部聞いてくださった。ある年大雨になった事があります。その時はテントの中で自炊をしながらのキャンプでした。ゴーゴー言う中で、雨の音でクラスの音も聞こえない中でしたけれども、不思議なように神さまは天候を必要な時に支えてくださり、大雨の合間にキャンプファイアーから全部予定したものができました。そういう経験をしたことがあります。今から7、8年前のことでしょうか。前主牧もまだキャンプに参加していた頃です。けれども、「雨が降ってる。神さまどうぞたすけてください。」子どもたちのお祈りには一度も裏切ったことがない。

 じゃ、雨が降らなくなるんですか? お祈りをすると...違う。神さまご自身が私たちが御名をもってせまる時に、答えてくださるという事実は神さまが一つ一つのお祈りに真剣に聞いてくださり、その事に身を入れて聞いてくださるかということなのです。

 私たちの信仰は御利益宗教ではない。御利益宗教とは何かっていうと、結果がオーライになるかどうかってことなんです。私たちは運転してハンドルをにぎる前にお祈りをして出かけます。じゃ運転したら事故にあいませんか? いくら心づもりしても反対から飛び出してきたりする。お祈りしていけば事故にあわない? 病気にならない? そうじゃない。お祈りをして、神さまの前にゆかせていただくとき、私たちはしないでいい、不必要な危険や過ちから守って頂くことができる。神さまの前を歩むという意識をもってさせていただく時に、神さまはそれを覚えて守ってくださるお方です。

 私たちが、イエスさまの御名の力を知らせていただく方法は祈りです。ヨハネの福音書でイエスさまはおっしゃいました。

「あなたがたがわたしの名によって求めることは何でもそれをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなた方がわたしの名によってわたしに求めるならわたしはそれをしましょう。」

 言い換えるなら、自分の利益や強欲や、そういうものによってイエスさまの御名を引っ張り出すことはできないということ、御名によってお祈りする事は、私たちが御名にふさわしい者であるかということが問われ、私たちの求めているものが神さまのご栄光に結びついていくのかがためされるということです。みだりに主の御名を口にあげてはならないと教えられている事はそういう事です。

 神さま、神さまと言っていればいいのではない。祭司エリの子どもたちは戦争に負けそうだっていうんで、契約の箱を持ち出して、どうしました? 結局、契約の箱を取られ、自分たちも死んで、お父さんもショックで死んでしまった。やたらに御名を口にあげればいいんじゃない。

 御名を用いて祈る時に実質を問われる。御名を用いて祈る時に本当に私たちが整えられたならば、神さまはその祈りをみんな聞いてあげようとおっしゃってくださるお方です。

「父は、わたしの名によって、それをあなたがたにお与えになります。あなたがたは、今まで何も、わたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。」

とイエスさまはおっしゃった。本気でこのことのために、あの人のために、私たちのために、イエスさまの御名によってお祈りしたことがありますか。

「あなた方のうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き主の御名によってオリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは病む人を回復させます。」


私たちが与えられているイエスさまの御名、それはイエスさまご自身のご人格、御業すべてを含むものであり、天の父なる神さまに帰せられるすべての御名がイエスさまに与えられている。その御名が私たちに与えられている。

御名を呼ぶときに私たちはイエスさまご自身をお呼びしている。天の父なる神さまご自身につながるところの秘密の鍵を与えられていることを忘れてはならない。

 その御名を用いて信仰をもって祈ることを今日からさせていただこうではありませんか。今日を生きるために、子どもをしつけるために、課題のために使ってごらんなさい。けれども、それはおまじないじゃなくて神さまご自身の実体ということがある。御名を唱えるにふさわしいものであるか。外に行って神さまの御名が汚されないようにとか神さまのためにということは簡単です。世の中の人が見てその口に御名をあげるにふさわしい者と見てもらうことができるか。互いに点検が必要なのです。

 created on 970803 (by S. Hebisawa)