説教ノート(ある信徒の覚え書きより)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年8月10日

「失われるのは舟だけ」

    井川 正一郎 牧師

使徒の働き 27章9−44節

中心聖句:

 「しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者は一人もありません。失われるのは舟だけです。」(22節)

教訓:信仰者には時として「失う」と言う状況が訪れるが、その時でも決して失われないものがある。


導入

 我々クリスチャンは、キリストを信じ従っていく者です。前回その信仰はいかなるものかについて、3つの角度から学ばさせて頂きました。

1)神様が臨在しておられることが心からわかっている。

2)神様が我々の最善を願い、またそれを達成されるお方であることが心からわかっている。

3)神に完全により頼むことが出来ている。

今日は引き続き信仰について、別の角度から学ばさせていただきたいと思っております。


 まず信仰には、所有するという一面と、失うという一面があることをお話ししておきたいと思います。

所有するという面では:

 神様からの恵みを自分のものにすることであり、そのような恵みの一例としては、救い、聖潔、霊的知識、実生活上の様々な祝福などがあります。私たちは信仰を得ることによって、いわゆる世的な成功や祝福(家族、仕事、事業、経済、物質、人間関係面での祝福)が副次的にもたらされます。

失うという面では:

 と同時に、信仰者は時として何かを失うこともあります。例えば、救いに際しては罪を捨て、聖潔に対しては自己中心の心や神により頼まない心など自分の心の中心的な悪の部分を捨てます。また、現世的な恵みにおいても、ある選択をすると言うことは、別の道や可能性を捨てると言うことでもあります。この様な選択によって神の御心にそぐわないものが一つづつ取り上げられているのです。

 今朝の箇所は、後者の「失う」と言う内容について取り上げられている箇所です。メッセージの中心となるのは、失われるのは「舟」だけであり、「失われないもの」があると言う所です


 エルサレムでユダヤ人たちに不当に訴えられたパウロは、自らがローマ人である特権を用いて、アグリッパ王と州総督フェストの前で、カイザル(ローマ皇帝ネロ)に上訴しました。これによりパウロは念願のローマに到達する手段を得ました。冒頭の箇所は、囚人としてローマに舟で護送される場面を描いているものです。

 クレテ島のラサヤについた一行は、地中海における嵐の季節(断食の季節=9〜10月の後から3月頃まで)を過ごすために、同じ島の反対側のピニクス(下記地図参照)に向けて出帆しました。パウロはその出帆に反対しましたが、彼らは南風が吹き始めると、一か八かで出帆してしまったのです。

 

 案の定、出航してまもなく嵐がやってきました。湖の嵐は大変なもので、彼らは殆ど生きて帰ることをあきらめざるを得ない状況にまで追い込まれたのです。

 この様な状況の中、パウロは「失われるのは舟だけ」と宣言したのです。この様に全てを失うかと言うような状況下においても、失われないものがある、と言うのが今日のメッセージです。


失われないものには何があるのでしょう?4つの角度から見て参りましょう。

(1)神様の助け

 もはや絶体絶命、と言うような状況下においても、神様の助けは失われることはありません。

 彼らは、パウロの助言を無視し、つまり神の導きでない出航をしました。この様に神の導きに従わないで別の道を人間が歩もうとすると、そこには神様が準備しておられるはずの守りも祝福もない苦難の道が待っています。つまり、自分勝手な道を歩むものには、神の道に従う者が得られるような豊かな祝福は与えられないのです。

 がしかし、神様は寛容なお方であり、そのように道を誤った者に対して、いつでも折々に回復の機会を与えられます。冒頭の箇所でも、大変飽く難の末、結局全ての乗員276名が一人も命を失うことがありませんでした(44節)。それは、パウロによってその乗員全てが神の道に導かれ直したからなのです。


(2)私の命

 22節には「命を失う者は一人もありません」と書かれています。クリスチャンにとっての死はどの様な場面で与えられるかともうしますと、神様から与えられた地上での使命が全うされたときであります。言い換えれば、使命が全うされない限り、命が取られることはありません

 この航海でパウロはローマに向かい、そこで宣教することが神様から与えられた使命だったのですから、それを果たすためにパウロの命は守られたのです。それと同時に、恵み深い主は乗員全てをパウロにお預けになり、彼ら全ての命も御救いになられたのです。


(3)必要な食物

 33節以降に、パウロが乗組員に食べ物を取ることを勧めて、皆を元気づけたと書いてあります。彼らはおそらく極度の緊張と不安、船酔い、調理不能などの原因によって、14日間も食事を取らないでいました。しかし、そのような状況下でも、食べる物がなかったわけではなかったのです。

 つまり、物が喉を通らないような極限的な困難な状況下でも、必要な食料は失われていなかったのであります。これは、我々が困難でいろいろなものを失っているときにも、必要最小限の必需品(仕事、衣食住、金銭など)は、確保され失われないことを意味しております。

 しかしここでもう一度確認しておきたいことは、「舟を失う」と言うことはこれらのことが残されたもやはり大きな痛手であるということです。我々に置き換えてみますと「舟を失う」ということは生活の土台や心の支えを失うことに他なりません。これは、例えば仕事や職場でありましょうし、また心の支えにしてきた事柄や、大事な友人であったりするでしょう。つまり決して軽いことではないのです。

 神様は、時として我々を信仰の訓練のため、この様な厳しい状況下におかれ、我々の信仰を試されることがあります。こういう時迷わず神様への信仰を第一に選択すると、必ず問題は解決に向かいます。

 パウロたちも、嵐の時、神に感謝を捧げてから食べ物を食べ、そして神様への全幅の信頼の発露として、残りの食料を全て海の投げ込みました。結局彼らは一人も死ぬことなく、マルタの島に到着しました。この様な道を選択された者には、神様の完全な保護がもたらされるのです。


(4)神に対する信仰と信頼

 最後のポイントは、神への信仰と信頼は、我々自身がそれを捨てない限り、失われることはないと言うことです。

 25節に「私は神のよって信じます。」とありますが、どの様な状況下においてもこの信仰を保ち続けていきたいものです。


最後に実生活への今日のメッセージの適用をまとめてみましょう。

1)手放さなければならないことは、早く手放しましょう。

神様の道にそぐわないような習慣や思い、事柄をいつまでも引きずらないで、早く整理いたしましょう。

サルをつかまえるとき、壺にバナナを入れておくとよいそうです。サルはバナナをつかみますが、その時に物陰から出て行くと、サルはあわててバナナをつかんだまま逃げようとします。バナナはそのままではツボの口に引っかかってしまうので、サルは重い壺をぶら下げて身動きがとれなくなるのです。こうなればしめたもので、簡単にサルをつかまえることが出来ます。

皆さんのまわりにもこういう人はいませんか?いつまでもバナナを握りしめていると、悪魔に捕まってしまいます。早くそのバナナを離しましょう。

2)恐れないで元気を出しましょう。

たとえ嵐が来ても、神様は私たちを守って下さいます。


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