説教ノート(ある信徒の覚え書きより)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年8月17日

「夕方の5時」

    蔦田 直毅 牧師

マタイの福音書 20章1−16節

中心聖句:

 「『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

 しかし、彼はその一人に答えていった。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と1デナリの約束をしたではありませんか。

 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。...』

 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(12〜16節)

教訓:神の公平について


導入

 今朝取り上げる箇所は、カナンの地の葡萄園で働いた労務者と主人のやりとりに関したイエスのお話で、神の国の公平について説明されているところです。

 約束の地カナンは豊かな土地で、多くの葡萄園がありました。バビロンの捕囚の際、ほとんどのユダヤ人はバビロンに連れて行かれましたが、この葡萄の面倒を見る人たちだけは残され、葡萄を育てたそうです。それ程までにカナンの地は豊かで、葡萄の栽培に適していたようです。当時こうした葡萄園では、今のように保存の手段がなかったので、収穫の際には臨時の労務者を大量に雇い入れ、一気に収穫を進めて、市場に持っていったそうです。冒頭の箇所は、葡萄園の主人が収穫の際、労働者を雇い入れ、最後にその報酬を払う場面に関する記事になっています。

 この部分は、神の国の公平がどの様なものであるかを示しています。私たちの住むこの世では、不公平や不正がはびこっています。今までこれらの不公平は、目をつぶって見えないようにされてきたものですが、最近になってこれらの不公平や不正が明らかにされつつあります。一方で、正しくない意味での「公平」が強調されたりもしています。ある学校では、運動会で子供に競争するなと指導しているところがあるそうです。その学校では、1位からビリまで同じような賞品を与えて、公正を期しているそうです。また公平だからといって、18〜19歳の育ち盛りの青年と、3歳ぐらいの子供に同じような食事を与えると言うのも考え物ですね。

 蓋し、私たちの国では絶対的な基準としての神の存在が非常に希薄なので、いったい何処に公平や公正の基準をおいて良いのかわからないのではないでしょうか?今日は聖書の中から、神の国における公平とはどの様なものか、学ばさせていただきたいと思います。

 


 マタイの福音書のこの周辺の箇所では、葡萄園の主人が、朝の9時、昼の12時、3時、そして夕方の5時の4回にわたって、労務者を募ったとあります。朝の9時に集めた人は、いわゆる自分から職を求めて並んでいた人たちで、働く気のある人たちでした。12時以降に集めた人は、「市場でぶらぶらしていた」とあるように、あまり積極的に働こうとしていない人たちでした。特に5時に集めたときは、残りあと1時間ぐらいしか働く時間がないときに集めた人で、朝から働いた人に比べると彼らは実際的にはほとんど働いていなかったものと思われます。

 夕方6時くらいになった時、主人はこれらの労務者全てに報酬を支払いました。報酬はどの時間に始めた者も、1デナリ(50円くらい、当時はこれで家族を一日養うことが出来た)でした。そこで、朝から働いていた人たちは、主人に不平をこぼすことになりました。これに対して、主人は「契約の1デナリを払ったのだから、とやかく言われる筋合いはない。あとから来た者には、相当の報酬を約束したが、私が1デナリ払いたいから払ったのだ」と答えたのです。このように、一見すると納得のいかないような処遇を神様はなされるとイエスは語られましたが、このことから神の国の公平とはいかなるものかについて、学んで参りたいと思います。


(1)神様は等しく労働の機会を与えられた。

 神様はまず自ら熱心に求める人たち(朝9時に集めた人たち)を拾われました。これらの人は自分から積極的に奉仕を申し出た人たちで、このような人には優先的に奉仕の仕事が与えられます。

 次に神様は、こういう積極的な姿勢を持つ者以外にも、市場でぶらぶらしているようなあまり積極的でない者にもお声をかけられ拾われました。

 このことの意味するところは、どの様な人にも神様は等しく奉仕や救いのチャンスを与えられる、と言うことです。

 ただし、どの様な人にも等しくこの恵みが与えられるには、前提条件として全ての人が福音を知っていることが必要になります。もし救いについて聞いたことがないという人がいたとしましょう。この人は果たして天国に行けるかというと、答えは残念ながらNOなのです。こういう厳粛な事実を知っているからこそ、私たちは福音を一生懸命多くの人に伝えようとしているのです。神様の公平を達成するためには、私たち人間側で福音を広める努力が必要になります。福音を知らされずに天国に行けなかったということがないように、しっかりと福音を伝えていきましょう。


 (2)労働の内容が公平である。

 朝から仕事を始めた人は、元々働く意欲のある人でした。こういう人には、神様はより一層の多くの仕事をお与えになります。これは実はそれ自体大変大きな祝福と捉えるべきことなのです。神様は、我々一人一人の奉仕したいという気持ちに応じて、適当な仕事を与えられます

 先日教会学校のキャンプで、この奉仕がテーマとして取り扱われました。そのせいか、小さな子供たちが食事が終わると、皆それぞれ持てるだけの食器を持って、いそいそと後片づけに参加していました。神様はこのように、小さき者にはそれ相応の奉仕をお与えになり、大人のように沢山の仕事が出来る者には、その力量に応じて、奉仕のお仕事をお与えになるのです。

 ここで、注意すべきことは、奉仕の量や大きさで神様が評価されるのではないと言うことです。たとえちっぽけなことであろうとも、またとても大きな奉仕であっても、「心から奉仕する」と言うこと自体が祝福であるということに目を向けましょう。


(3)神様は報酬においても公平であられる。

 葡萄園の主人は、全ての労務者に、その労働量に関わらず等しく1デナリを与えました。これは一見すると、なんだか朝から働いた人がかわいそうな気がします。実際、朝から働いていた人たちは、ぶつぶつ文句を言い始めました。

 しかしここでよく考えますと、朝から働いたものには、約束通りの1デナリが支払われたのであって、彼らは文句を言う筋合いではなかったのです。あとから仕事に加わった者たちは、いわば主人の太っ腹によるおまけで、1デナリをもらったに過ぎません。

 このような内容は、有名な放蕩息子のたとえ話でも出て参ります。財産を使い果たして帰ってきた弟に、父親が大歓迎の出迎えをすると、まじめに働いてきた兄がふてくされて腹を立てます。こういう、後から来た者が得をするように見える出来事を神様は起こされます。

 こういう話をしますと、なんだか初めからまじめにやっているより、出来るだけ後になってからまじめになった方がよいと考える人もいるでしょう。しかし、そういうことを考える人には、神様の祝福はありません。神様は、我々一人一人に、その時々その人にふさわしい形で祝福をお与えになるので、私たちの側からその時期を選択することは出来ないのです。

 では一体「後から来た者が先になる」と言うことはどの様な意味を持っているのでしょう。これは一般に信仰の先輩と呼ばれる人に対しての警鐘になっているのです。救われて何年も経つと、それだけ奉仕の数も増え、また信仰経験や与えられた聖言の数も増えてきます。また、年齢を経ることで、いわゆる年功序列的に教会内での立場が高くなっていくこともあり得ます。イエス様は、このような「先に来た者」の奢りや傲慢を戒めておられるのです。教会にこのような序列があってはなりません。後から来た者、昨日来たばかりの者も皆等しく扱われ、心から自信を持って教会を自分の教会と言うことが出来なければならないのです。

 神の前に奉仕するときには、人間的な尺度で量ることが出来ません。このことを冒頭の箇所は説いているのです。以下に教会に古くから来ていても、2000年に及ぶ長い教会全体の歴史では、皆夕方の5時に来た者と言わざるを得ません。こう言うわけですから、誰も誇れる者などいないのです。


最後に実生活への今日のメッセージの適用をまとめてみましょう。

1)全ての人を残らず天国へ迎えるべく、福音を伝えましょう。

2)各々の奉仕の場において、神の前に誰にも優劣の差(信仰歴、奉仕の度合い)はないことを認識しましょう。

3)我々はもうすぐ夜となる夕方5時にいることを認識しましょう。まだ「市場をうろうろしている人」がいたら、進んで声をかけましょう。

4)各々の立場で為し得る奉仕をし、そのことで誇ることがないようにしましょう。皆神様に救われたただの罪人に過ぎないのですから。


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