説教ノート(ある信徒の覚え書きより)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年8月31日

「生きるにしても、死ぬにしても」

    蔦田 直毅 牧師

ローマ人への手紙 14章全体

中心聖句:

 「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(8節)

教訓:イエスにあって生き、死ぬとはどの様なものか


導入

 最近のニュースなどでは、幼い子供が被害者になったりするような凶悪な犯罪が増えており、こういうニュースを見ますと、否が応でも死と言うものを意識せざるを得ない人が増えているようです。しかし、そのような人たちでも、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」と言う言葉がありますように、死と言うものを考えるのはその時限りで、日常生活の中でそういう問題を考え続けている人は少ないでしょう。戦争中は、多くの人が死ぬことばかり考えていて、未来について思いを馳せることがなかったと言います。平和な現在ではそのようなことはなく、逆にどうやって生きるかということのみに力点が置かれているような気がしています。ただ、そういう死を意識しなくても良い平和なご時世とは言っても、そこで提供される様々な生きる手段や方法だけでは、人間の心の奥底まで満たされると言うことはないのではないでしょうか。

 冒頭の箇所で出て来ます、「生きるにしても死ぬにしても主のもの」と言う言葉は、パウロがローマの教会の人に送った手紙に書いてあったことです。この言葉は、クリスチャンとしての我々が、日常の生活の中で絶えず意識すべき生と死に関わる内容を表したものです。今日この言葉を通じて、我々にとって「生きるにしても、死ぬにしても」と言うことがどの様な意味を持っているのかについて、3つの角度からメッセージを捉えてみたいと思います。


生きるににしても死ぬにしても、と言う言葉が書かれているこの章では、クリスチャンに対して行うべきこととして、1)互いに受け入れなさい、2)互いに建て上げなさい、3)信仰によって生きなさい、と言う3つのことが勧められています。

(1)互いに受け入れなさい。

 「信仰の弱い人受け入れなさい」(1節)と言う言葉は、その反対内容の「その意見をさばく」という言葉とともに記されています。他人をさばくことは、クリスチャンが行ってはいけないこととしてよく強調されることの一つですが、他人をさばく立場の人は、他人をさばくという事をしてしまった後では、もはや「弱い」人と同じ立場にいることになります。といいますのも、人をさばくと言う時には、自分が「強い」立場にいると思う傲慢な心があるからなのです。

 14節では、食べ物の趣味や内容で、他人を裁いている人がローマ教会にいることを、パウロは指摘しています。キリスト教では、他の宗教とは違って、何を食べては行けない、これを食べては行けない、などと言う細かい戒律のようなものは一切ありません。何を飲み食いするのも、皆その人の自由意志に委ねられているのです。ただし、どのようなものでも神に感謝し神の栄光のために食べる、と言うことが重視されるのです。従って、何を飲み食いすべきか、何を飲み食いすべきでないかという問題は、聖霊の働きによって個人の心の中に示されることになるのです。この聖霊の導きに、背かないことが重要です。

 こういう問題は、飲食の問題だけでなく、もっと広い行動にも及びます。例えば、パウロはある人が特定の日を重視して、その日に特別なことをすると言う行動をとることがあり、それを非難する人がいると言っています。(5節)実は、テレビが出来た頃、アメリカのある教会では「テレビは悪魔の箱である」と言ってそれを見ることを禁止したところがあったそうです。しかし、現在では日曜の朝にはテレビでメッセージが伝えられたり、礼拝が放送されたりもするわけです。このように、人の考えにはその時の時代背景や習慣というものが色濃く反映しており、一つ一つの行いを取り上げて、神様のように客観的な判断など出来るものではないのです。

 「さばく」ということは、実は自分自身がその人のやっていることを許せない、と言う実に人間的な心の狭さから出ていることなのです。本当の神様の世界とは、罪に対してははっきりとした区別がありますが、細かい一つ一つの行動、例えばそばやでキツネうどんを食べるか、タヌキそばを食べるかなどと言うようなことですが、こういうことに対しては私たち一人一人の自由意志に任せられているのです。

 いろいろな行動が我々の自由意志に委ねられている、と言う点はキリスト教の大きな特徴の一つです。そういう点で、やはり信仰的に「弱い人」と言う方が存在し、どうしても何かはっきりした戒律が必要だと思う人も出てくることがあります。また、信仰を持っていない人は、もちろん様々な悪い習慣を止められないこともあるでしょう。このことは、厳然たる事実でありますが、そのような人をつかまえて、「あなたは間違っている」とクリスチャンが言うべきではない、と言うことが今日のメッセージの一つになります。

 パウロは第1節で、そういう弱い人たちを受け入れなさい、と言っています。これはかれ自身の経験から来ていることなのです。パウロは最初、ユダヤの厳格なパリサイ派に属する大変なエリート学者であり、自ら進んでキリスト教を迫害していたものの一人でした。ところがダマスコでの劇的なイエスとの出会いにより救われ、キリストの教えをユダヤ人以外の異邦人に知らせる大変な役割をまかせられることになります。この時の「受け入れられた」と言う思いがパウロにあり、このことがどの様な人でも受け入れなさいと言う言葉になって現れているのではないかと私は思います。

 人をさばくと言うことは、自分が偉いと思っているからだと言いましたが、これはとりもなおさず自分を神の立場にまで上げてしまっていることなのです。我々は、ただ神様の哀れみによって救われたいっかいの罪人なのですから、神様のように振る舞ってはいけないのです。


(2)互いに高めあい、建て上げなさい。

  2番目のポイントは、お互いに霊的成長を遂げなさい(19節)と言う内容です。この反対は、「人をつまずかせる」と言うことです。その時は、平和と霊的成長に役立つことを追い求めよと19節に書いてあります。

 人と接するとき、争いを起こさないように何とか接することは出来ても、より積極的に平和をもたらすように人に接すると言うことは並大抵のことではありません。しかし、神様は私たちにこういうことを目指そうと勧めておられるのです。また、誰かと接しているときに、その人を結果として堕落させてしまうのではなく、その行いを通じてその人が霊的に成長するようにするべきだとも勧められているのです。

 では、他人を成長させ建て上げるというのはどうやったら出来ることなのでしょう。ここで「私があなたを変えてみせる」といきりたってしまうと、その時点でほとんどその試みは失敗しています。弱い人がいるのは事実なのですが、その人を建て上げるとき大切なことは、「その人をつまずかせない」と言う一点にあります。

 例えば、未信者の人とどこかに泊まったとき、その人が北枕にこだわって枕の位置を決めようとしたとします。この時、「私はクリスチャンだからそんなことは気にしない。なぜなら...。」と反論してみたり、わざわざ自分だけ北枕にしてみたりすることは、その人に反感だけ与えてしまうことになるかも知れません。あまりにも細かい規範にとらわれてそれを人に押しつけていくようであってはなりません。「そばやに入ってみて、キツネうどんばかり食べている人がいたらそれはクリスチャンだ」と言うようなことがあっては残念なことです。

 そういう弱い人に接するときは、その人に合わせつつ、その人がつまずかないように接してあげることがよいのです。北枕を気にする人が同室したなら、黙ってその人と同じ向きで寝てあげればよいわけです。酒を飲んではいけないとは、聖書の何処にも書いてありませんが、酒の持っている性質上ある弱い人がそれにおぼれるということはたくさん聖書に書いてあることです。クリスチャンは誰から言われるでもなく、自分やそういう弱い人がつまずかないようにするために、聖霊の働きによって酒を飲まなくなるように導かれていくのです。


(3)信仰によって生きなさい。

 信仰を持ち、主のものとされることと、救われ罪から解放されると言うことは同じ意味を持つことです。これは、我々が生きる動機が罪によって支配されることがなくなり、神様の前に自分の心を吟味し、御心に適うように行動できると言うことを意味しています。つまり、何かやろうとするときの動機が、他人がやれといっているからであるとか、自分の欲望がそう勧めるからとかではなく、神様を信仰するその心から出ている、と言う状態を意味します。

 救われると言うことは一つの出来事でありますので、その時点で何か達成されたように思うかも知れません。しかし、信仰というものは一回救われたとか、きよめられたとか言うことばかりが大切なのではなく、日常的に罪から離れ、神様への信仰を第一に生き続けていくことが重要なのです。

 ここでのポイントは、どういう動機で行動し生活するかにあります。つまり、自分がよいと思ってやることが、神様の基準に沿っているものかどうかと言うことになります。もし自分のやろうとしていることが、神様の御名によってなせることであれば、そのことは大いに進めて良いことなのです。


 今日は秋の特別伝道会のお知らせをする日になっていますが、この伝道会で私たちが多くの人を本当の意味でお迎えできる態勢になっていたいと思います。そのために、私たちと教会を整え、備えていきたいのです。

 私たちにはみな弱さがあり、神様はその弱さにも関わらず私たち一人一人を救って下さいました。私たちも多くの弱い人を受け入れ、その人を裁くことなく信仰の成長に導いていくように致しましょう。


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