説教ノート(ある信徒の覚え書きより)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年9月7日

「問題処理の真髄」

    井川 正一郎 牧師

第二サムエル記15章7ー31節

中心聖句:

 そこでダビデはエルサレムにいる自分の家来全部に言った。「さあ、逃げよう。そうでないと、アブシャロムから逃れる者はなくなるだろう。すぐ出発しよう。彼がすばやく追いつて、私たちに害を加え、剣の刃でこの町を討つといけないから。」(14節)

 もし主が、『あなたは私の心にかなわない。』と言われるなら、どうか、この私に主が良いと思われることをして下さるように。」(26節)

 よく覚えていてもらいたい。私はあなたがたから知らせのことばが来るまで、荒野の草原で、しばらく待とう。」(28節)

教訓:ダビデ王の行動に問題解決の秘訣を学ぶ


導入

 ダビデ王は約束の地へ帰還したユダヤの民の2番目の王です。彼は大変信仰の深い、神様に愛された人物で、聖書の中の「詩篇」を残しました。ダビデは非常に信仰が厚く神第一に生きた人でしたので、神様はダビデを祝福し、何度となく行われた周辺民族との戦いも連戦連勝をおさめ、イスラエル王国を建て上げました。しかしそのような絶頂期にある時、ダビデは部下の妻を横取りし、しかもその部下を謀殺するという罪を起こしました。これにより、ダビデの後半生はその家族にまつわる様々な困難との格闘に終始することになります。

 冒頭の箇所は、そのようなダビデの苦難の中で最も彼を悩ませた愛息アブシャロムの謀反についての記事です。ダビデの娘タマルはその兄アムノンに辱めを受け、アムノンはそのために兄弟であるアブシャロムによって殺害されることになります。アブシャロムはその後逃亡しますが、やがて王のもとへ戻ります。しかし、アブシャロムはついにダビデに対して謀反を起こします。彼は、イスラエルの民の多くの気持ちをつかみ、またダビデの側近中の側近アヒトフェルをも味方に付けたので、ダビデは失意の内にエルサレムを追われることになるのです。

 ダビデは冒頭の箇所で、「さあ逃げよう」と言いました。今朝のメッセージはこの箇所と、それに続く25〜28節を中心に取り扱わせていただきます。今日のメッセージでは、問題となっていることからひとたび離れ、客観的な立場からその問題を捉えなおし、そして神様による解決を待つ、と言うことについて4つの角度から学んで参りたいと思います。


「さあ、逃げよう」と言うことは何か問題から逃避することのように思えます。問題から逃げていては解決しない、と言うこともある意味で真実ですが、ある場合には問題から少し距離を置くことが重要なケースもあるのです。このようなときの問題解決の真髄についてまとめてみましょう。

(1)問題は自分の問題であるという意識を持つ。

 ダビデが「逃げよう」と言ったとき、彼はこの問題が自分の行いに根本的な原因があると思っていました。つまり自分が起こした姦淫の罪によって問題が家族にもたらされていること、またその問題を適切に処理することが出来ず、アブシャロムをここまで追いつめてしまったことをある面で後悔していたのです。

 私たちが問題を解決する際にまず大切なことは、与えられた問題が他の誰でもない自分自身の問題であること意識することなのです。我々が直面する問題は、自分に問題があるケースと、外側に問題があるケースがあります。たとえ自分には全く問題がないケースでも、その問題は神様があなたの信仰を成長させようとお与えになったと捉えるべきことなのです。従って、この冒頭の箇所のポイントは、ダビデをとりまく事件がどの様に展開したかではなく、ダビデがどの様な心でその問題に対処したかということにあるのです。

 私たちは、様々な問題にぶつかったとき、その問題に心を奪われてしまいがちです。しかし、問題そのものよりも、まず自分自身について、「この私」について目を向ける必要があるのです。つまり、他人に責任を転嫁したり、人のせいにしたりする以前に、まず「この私の問題」ととらえることが大事です。


(2)一般(他の)人を巻き添えにしない。

 アブシャロムとの戦いを前に、ダビデは自分の手下以外の一般人を巻き添えにしないようにしました。彼は、エルサレムの一般人を戦いに巻き込まないように、家臣の者とエルサレムを出る覚悟をしたのです。また、彼につき従おうとした者でも、彼と関係の薄いガテ人イタイなどにはエルサレムにとどまるように言いました。(ちなみにイタイは最終的にはダビデにつき従いました。こういう土壇場の時に人の本心が見えるものです。)


(3)神様を利用しない。

 24節に、祭司ツァドクが神様の加護の象徴である契約の箱を持ち出し、ダビデに持たせようとしたことが書いてあります。ダビデはこれを断りました。そして、

「もし、私が主の恵みをいただくことが出来れば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見せて下さろう。」(25節)

 と答えました。彼は、自分の利己的な目的に神様の力を利用することが罪であることを知っていたのです。

 困難に出会ったからと言って、神様の力を自分の目的のために利用するようなことがあってはならないのです。例えば、「私は信仰を持っているのですから、神様が助けて下さらなければ。」というように思うことは、ある意味で傲慢なことです。このような心で困難に臨むのではなく、もっと平常心で困難に対応することが大切です。


(4)心から神様に委ね、待ち望む。

 26節では、

「この私に主が良いと思われることをして下さるように。」

 また28節では、

「私はあなたがたから知らせのことばが来るまで、荒野の草原で、しばらく待とう。」

 と書いてあります。これは困難にぶち当たった際、ダビデが実に神様に全てを委ね、その応答を待ち望んだことを示しています。

 この委ね、待ち望むという事は、しばしば強調される内容ですが、実際に行うというのは大変なことです。これには、次に示す4つの内容が含まれています。

i) 答えを任せる。−自分の期待しないような解答でも、神様への信頼を変えない。

ii) 時を任せる。−解決は神様にお委ねした時点で済んでおり、後は待つだけという姿勢をとる。

iii) やり方・方法を任せる。−自分でああだ、こうだと努力して独りよがりに問題を解決するのではなく、神様のお示し下さった方法で解決する。

iv) 神の恵みに期待する。−神様は信仰者を決して見捨てなさらないお方であるという事を信じきる。

 今あなた方に与えられた問題は様々なものがあるでしょう。ある人にとっては、ダビデのように家庭の問題であったり、職場の人間関係、友人や上司との関係、学校での人間関係にまつわる問題かも知れません。その問題は必ずしもあなたに問題の原因はないかも知れません。しかし今日のメッセージでは、その問題をまず人のせいにするのでなく、自分の問題ととらえ、よく思いめぐらせつつ、神様の恵みのなせるのを待つ、ということが取り扱われているのです。

 ダビデは、「しばらく待とう」と語りましたが、このしばらくという言葉には、解決・解答が必ず訪れるという希望が感じとれます。そうです、信じて待つ者に神様は必ず解決策を与えて下さいます。

 あなた方の中に、あまりにも問題の泥沼の中には入り込んで、何がなんだか分からなくなっておられる方はいらっしゃいませんでしょうか。そのような方は、是非今日のメッセージを自分のものにしていただきたいのです。


最後に実生活への適用を二つの観点から見てみましょう。

1)難問があるときは、その問題は他人ではなく、自分の問題であるということをまずはっきりと認識いたしましょう。

「私の口のことばと、私の心の思いとが
御前に、受け入れられますように。
わが岩、わが購い主、主よ。」
(詩篇19:14)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。
私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、
私をとこしえの道に導いてください。」
(詩篇139:23-24)

問題に臨むとき、落ちついて自分の心を探り、祈ってみましょう。

2)直面する問題とひとたび距離を置いてみる。

問題の泥沼の中でもがき苦しんでいる方は、是非一度その問題と距離を置き、客観的にその問題をとらえなおしてみてください。そして、主の恵みを委ねて待ち望む勇気を持ちましょう


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