説教ノート(ある信徒の覚え書きより)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年10月5日

「与えられた恵みによって」

蔦田 直毅 牧師

ローマ人への手紙12章全体

中心聖句:

 「わたしたちは与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰によって預言しなさい。」

(6節)

教訓:恵みに立った奉仕。


導入

今週は教会全体でお祈りしてきました、秋の特別集会を持つ週です。この週を始めるに当たって、神様から頂いた恵みに立脚した奉仕についてメッセージをとりつがせていただきたいと思います。

今日取り上げた箇所は、パウロがローマの教会にあてて書いた手紙「ローマ人への手紙」の一節です。ローマ人への手紙は、1〜8章の「教理の説明」部、9〜11章の「イスラエル民族について」の部分、12章から最後までの「実生活における信仰の実践」の大きく分けて3つの部分に分けられます。冒頭の箇所のある12章は、信仰の実生活での実践部分について書かれた箇所の最初の章になります。

12章はさらに細かくみていきますと、1〜2節、3〜13節、14〜21節の3つに分かれており、後半の二つで、それぞれ教会内外での生活について具体的な方針が書かれています。

今日扱おうとしているこの箇所の中心的なメッセージは、「信仰生活の実践は、私たちが神様から頂いた恵みにたって行われるべきものだ。」と言うことになります。


 それでは、この恵みが私たちにとってどんな意味を持つものかを、3つの角度から取り上げていきましょう。

1)自分にとっての恵みは何なのか、はっきり自覚すること

 クリスチャンのよく使う言葉に、「恵みによって」と言う表現があります。この表現は単なる枕詞や、接頭語として使うのではなく、言っている時に具体的にその恵みがイメージされているものです。

 ここでパウロは「自分に与えられた恵み」とか「与えられた恵みによって」などと表現していますが、どの様な恵みを思い浮かべていたのでしょうか?パウロは、使徒の中でもかなり例外的な経緯でキリスト教に導かれた人物です。彼はユダヤ人の中でも厳格で有名なパリサイ人の学者として道を立てようとしていた人で、現在で言えば東大法学部のような所にいたいわゆる「エリート」でした。彼は若い頃大きなうねりとなって広まっていったキリスト教の教えに反発し、キリスト教との迫害に加わっていた人でした。その彼がダマスコと言うところに向かう途中、天から現れたイエスと会い、劇的な回心を行います。その後、彼は自らに与えられた使命である異邦人(ユダヤ人以外の人)への宣教を精力的に行っていくのです。この働きがあったからこそ、キリスト教は現在世界に広がる事が出来ました。彼にとっての恵みとは、神様がこの回心の機会を与えてくださったことであると言えます。事実彼は幾度となくこの時のことを宣教先で証ししています。

 パウロは以前キリスト教徒を弾圧していたのですから、イエスとともに過ごした期間が長いペテロやヨハネたちのような使徒とパウロの立場の間に、普通に考えれば大きなギャップがあったはずです。しかし神様の恵みは、そのようなことで差別されることはありませんでした。誰でも、全く等しく恵みにあずかることが出来るのが、神の国の原則なのです。このことはパウロにとっては忘れられない大きな恵みであったはずです。

 奉仕をしようかしまいかと考えておられる方には、往々にして「自分はまだあまりクリスチャンになってから日が経っていないから」とか、「どうも私は聖書の知識が足りないから」とお考えの方が多いようです。しかし、神様が願う一番大切なことは、自分に与えられた恵みを良く自覚し、その恵みをなんとか神様にお返ししようとする気持ちがあるかどうかということです。ですからどんな人でも、奉仕するときに躊躇する必要はありません。皆さんの恵みは何だったか、もう一度思いめぐらし、その恵みに立って奉仕させていただきましょう。

12章1〜2節で、パウロは

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」

と語っています。恵みを自覚し、その恵みに対しパウロのような献身の姿勢を取らせていただきましょう。

神様から頂いた恵みは、普段私たちはあまり意識することがないかも知れません。例えて言うならば、私たちにとって「血液」や「空気」のようなものといえるかも知れません。こういうものは、満たされている普段はあまり意識することはありませんが、もしちょっとでも不足してくると、とたんに具合が悪くなってくるものです。このような恵みを普段から意識しておくことで、不足するという事態を避ける事が出来るのです。


2)恵みの結果としてもたらされること

これには謙遜、確信、自由の3つがあります。

i)謙遜:

3節でパウロは慎み深さについて

「誰でも思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神が各々に分け与えてくださった信仰のはかりに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

と語っています。教会の生活は、俗世間とはちょっと違っていまして、その内容が分かってより高いレベルで信仰を持つようになりますと、それに反比例して頭が下がり、腰が低くなっていくものです。私たちは、「恵みによって」このような謙遜を得させていただくことが出来ます

ii)確信:

これは奉仕をする時、各人がその能力に応じた確信をもって行うことが出来る、というものです。人間には誰にでも何かの取り柄があります。キリスト教ではこれを「賜物」とか「タレント(才能)」とか呼んでいます。これは、世間一般で言うところの「得手・不得手」と言うのとは少し意味が違い、神様と共に歩む時、その奉仕に対して私たちが用いることが出来る資質のことを指します。教会にもいろいろな才能を持った人がいて、それぞれ奉仕に生かされています。ある人はお祈りの賜物、ある人は大工さんとしての技術、ある人は教師として、ある人はフラワーアレンジメント、ある人はいろいろな行事の手配、ある人は教会の送迎バスの運転、ある人は教会堂の掃除など、本当にいろいろな賜物があるものです。

神様の恵みは、奉仕をする時その人の才能に自信を与え、はっきりと確信を持った状態で発揮させて下さいます。神様から頂いた皆さんの才能を眠らせておかずに、このような恵みに入らせていただきましょう。

iii)自由:

神様から恵みを頂いてそれに立った奉仕をすると、人様の借り物でない自分自身の奉仕をすることが出来ます。これは誰から束縛されることのない、本当に自由な奉仕なのです。パウロは迫害者でしたので、このような恵みがなければ、到底人前に立って説教する事など出来なかったでしょう。


3)恵みに立脚した新しい生活・生涯に入る

これまで、恵みと奉仕の関係についてみてきましたが、具体的に生活を送る上でどういう形で反映させたらよいのでしょうか?最後にこの点についてまとめてみましょう。

・神様の下さった才能を用いて奉仕する。

イエス様の有名なたとえ話に、タラントの話があります。ある主人が留守中に3人の者に別々の額のタラント(お金の単位)を預けて行きました。多く預けられた二人はそれを留守中に増やし、それを主人に報告し、多くの褒美をもらいました。しかし、一番少ない1タラントを預けられた者は、それをただ土の中に埋めておきました。そして主人が帰ってくるとそれをそのまま返しました。主人は留守中にそのタラントをただ寝かせておいた者を厳しくしかり、そのタラントを後の二人に分け与えるように言いました。(マタイ25章14〜29節)これは、神様から与えられた才能を寝かしておいてはならない、と言うことのたとえ話です。才能を使わない者は、取り上げられてしまう、という戒めなのです。

・交わりの生涯を送る。

他の教会員の方と互いに愛し合い、主に仕えましょう。

・周囲の人に対して証をする。

平和を保つことが大切です。悪を持って悪に向かうのではなく、善を持って悪に立ち向かいましょう。


 今日は以上の通り、恵みに立った奉仕についてお話しさせていただきました。今週、皆さんに与えられた賜物を生かし、奉仕を通じて証を立てさせていただきましょう。


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