説教ノート(ある信徒の覚え書きより)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年10月19日

「主がいかに大いなる事を」

蔦田 直毅 牧師

マルコの福音書5章1〜20節

中心聖句:

 「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんな大きなことをして下さったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」

(19節)

教訓:神のなし賜うた大いなる救いという恵みとは何か?


導入

先週は、秋の特別集会を祝福のうちに終え、教会員の方も来会者の方も、恵みを神様から多くの方が頂きました。このことを単なる思い出とせずに、引き続き日常的に継続して持ち続けていただきたく思っております。

今日取り上げるマルコの福音書は、ペテロの鞄持ちであったとも言われているマルコによる福音書で、特にイエスの御業について詳しく書かれた書であります。ちなみに、他の3つの福音書では、マタイの福音書が「説教」と「メシヤ」を強調し、ルカの福音書が「人間イエス」について重点を置き、ヨハネの黙示録が「イエスの神聖」について力点を置いていると言われております。

冒頭の箇所は、ゲラサという場所にいた悪霊にとりつかれていた男をイエスがいやした記事について書いてあります。この男は、極めて凶暴な錯乱状態にある人であり、しかも異常な腕力を持っていたので、鎖ですらその行動を抑えることが出来なかったとあります。しかもその攻撃性は、他者のみならず自分自身にも向けられ、石で自分の体を打っていたと書いてあります。イエスはこのような人物から「悪霊」を追い出し、豚に乗り移らせられました。その豚は2000匹にものぼり、やがて来るって湖に自ら飛び込んで死にました。男はこの奇跡により完全に正常になりましたので、その地方の人は大変驚いたのです。

今日は、この男にイエスがなさった御業について、3つの角度からメッセージを取り次がせていただきたいと思います。


1)ゲラサの男はそれまでどんなひどい状況にいたのか

 このゲラサの男は、「悪霊」にとりつかれていたとありますが、これは何らかの要因で「心が侵害された状態」にあったと取ることが出来るでしょう。言い換えると、普通の人は心の中にしまい込んでいる「心の中にある罪の部分」が、表に現れ出てしまっている状態と言うことが出来ます。

このような事態は、ストレスの多い現代社会ではかなり一般的なことになりつつあり、実際最近では大人から青少年に至るまで、想像もしなかったような残忍で凶暴な事件が起きたりしています。

ここで今一度、ゲラサの男が一体どの様な状況にいたの整理してみましょう。

i)孤独だった

ゲラサの男は孤独でした。墓場に誰からも顧みられることもなく、日々苦しみに叫び、うめいていたのです。

このような姿は、現代の若者にも見られるものです。最近の新聞では、多くの若者がどこかに連れだって遊ぶような「仲間」はたくさんいても、心の中を割って話し合うことが出来る本当の意味での「友達」を持っていないと言うことが取り上げられていました。しかも彼らは、「仲間外れにされること」を極端に嫌って、自分の意見や考えを決して表に現すことなく、ひたすら自分を殺して協調ばかり考えていると言うことも書いてありました。若者のこの姿は、実は多くの仲間がいても、心の中は孤独で寂しい状態であることを示しています。

このような姿は、人間が神から離れて、本来あるべき姿を見失い、そこから離れていってしまうことに原因があります。ゲラサの男も、現代の我々も、神から離れる者は、常にひとりぼっちな存在なのです。

ii)憎しみに満ちていた

ゲラサの男は、心の中に激しい憤りや憎しみがあり、それが表に出て来てしまっていました。多くの人間は、実は心に大きな憎しみや憤りがあってもそれを抑え、顔ではニコニコしてそういうそぶりすら見せないようにして暮らしています。しかし中には、そういう憤りを抑えることが出来ずに、「あいつが悪いからこうなった」と外に攻撃性をあらわに出してしまう人がいます。

そのように他者に対する攻撃性を見せることがない人でも、このゲラサの男のように、「自分自身」に対して攻撃性を示す人間も沢山います。例えば自殺の問題があります。有名人などが自殺すると、それにつられて自殺する人が増えると言われています。ある心理的カウンセラーの話では、自殺願望のある人は相当数存在しており、そういう人はどこかで心理的に自己傷害傾向を有しているそうです。そして他人の自殺を契機に、それが自分自身の中でも増大して自殺に至るそうなのです。

これらの「攻撃性」や「憎しみ」は、自分自身の努力や、他人の通常の働きかけでは何ともしようがない問題であると考える人もいます。ゲラサの男も、鎖でつないでおくことすら出来なかったと書いてあります。

iii)不安であった

ゲラサの男は昼夜なく叫んでいたそうです。叫ぶ詩人の会というグループが共感を得ているそうですが、多くの人が真実「叫びたい」気持ちでいるのが今日の現実ではないでしょうか?そういう人は、サッカーのゲームを見て叫んだり、カラオケで盛り上がったり、お祭りではしゃいだりして、憂さを晴らしているのです。しかし、それにも関わらず、多くの人がそのモヤモヤした気持ちを完全には解消できないでいるものです。それは、そのような不安を、これらの憂さ晴らしや心理カウンセリングで、「対処療法」で一時的に処理することは出来ても、問題の根本が解決されていないからなのです。

これらの問題は、心に存在する根本的問題が形を変えて表面に出て来ているだけなので、それ一つづつをなおしても、また次から次ぎへと違う症状が出て来てしまうのです。

イエスがゲラサの男に為した御業とは何であったのかを良く考えてみると、こういう男の表面に現れた「罪」という問題の根元を取り去った点が最も重要なのです。


2)ゲラサの男にどんなすばらしい事が起きたのか

ゲラサの男に起こったすばらしいわざは、大きく分けて二つ挙げられます。

i)心の中の悪霊が追い出された

ゲラサの男については、特に記述はありませんが、多くの人間がその異常を治そうとしたに違いありません。彼がとりつかれていた悪霊は自ら「レギオン」と名乗りましたが、このレギオンとは「沢山」という意味を持っています。また、ローマの軍隊用語で「連隊」を指すものでもあったようです。この悪霊はその名のとおり実に強力で、イエスの働きで豚に乗り移ってからは、2000匹もの豚を動かし、そして湖に飛び込ませてしまいました。このような強力な悪霊がゲラサの男についていたために、男が悪霊から解放されるのは並大抵のことでは出来ないことでした。そして、結局誰もその乱暴な行いを改めさせることは出来ず、鎖でつないでも抑えることは出来ませんでした。そして、多くの人間が彼を見捨て、彼は墓場に捨て置かれたようになっていたのです。

イエスはこういうゲラサの男から悪霊を見事に追い払いました。イエスはそのころ奇跡を行うと言うことで評判となり、多くの人間が奇跡を求めてイエスのもとに集ってきていました。そのようなとき、その打ち捨てられたゲラサの男を助けるために、わざわざイエスはガリラヤ湖を渡ってやってきたのです。実は私たちの救いもこれと同じで、イエスがわざわざ一人一人を思って、やってきてくださり、為された業なのです。

イエスの為す業とは、このように人間の努力ではどうすることもできない心の罪の問題を、その十字架によってあがない、我々を自由の身にして下さることなのです。

ii)死へ至る運命から解放された

ゲラサの男は、イエスに救い出されるまで、後は死と滅びしか残されていないものでした。しかし、その問題の根本をイエスによって解決されることで、人生が全く変えられました。

よく教会は「罪人(つみびと)の博物館」であると言われます。これは何も、教会が刑務所のようなものだといっているのではありません。教会の人たちが、一人一人様々な心の罪の問題(神を信じない不信仰な姿勢)を抱えていた過去を持っていて(これは人間すべてのことですが)、それをイエス様によって救われた事実を経験している事を指していっているのです。

神による解決は、表面的な対処療法ではなく、問題の奥底に潜む根本原因=罪を絶つことなのです。罪のもたらす結果は死であることは聖書のあちこちに書いてあることです。私たちは本来なら「死」と「滅び」という結末しかなかったわけですが、「救い」を受けることで神の国に至る約束ある栄光の道へと180度人生を変えられたのです。


3)ゲラサの男に起きた変化とは

イエスによる救いを受けた後、ゲラサの男は着物を着て正気に返り、おとなしく座っていたとかいてあります。それまで鎖で縛り付けておくこともできなかった男が、そのように変えられた事は多くの人にとって大きな驚きでありました。

救いに伴う変化とは、このようにある意味で驚異的な変化なのです。そしてこの変化は、人間が本来あるべき罪のない正常な姿に戻るというものなのです。

男に起こった変化の2番目のポイントは、人里離れたところでひとりぼっちであった状態から、人と神とのかかわり合いを持つ事が出来るようになったことです。教会の人間的交流とはこのように救いの御業に基本をおくものであることを理解しましょう。

男に起きた変化の第4のポイントは、生きる目的が、神の栄光を賛美し、証しすることに変えられたことです。救われた私たちも、この男のように神様の業を証ししていきましょう。


 ゲラサの男に起きたことは、何も特別なことではありません。私たちはイエスの十字架により救われると言う、この男と同じ恵みをお受けているのです。このように大きな恵みを神様が私たちにして下さったことを今一度思い起こし、今週神様を賛美し証しする週とさせていただきましょう。


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