説教ノート(ある信徒の覚え書きより)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
97年11月9日
「湖の向こう岸」
蔦田 直毅 牧師
マルコの福音書5章1〜21節
中心聖句:
「こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。」
「イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。」
(1節と21節)
教訓:向こう岸とはどんなところか。
導入
今週は、先々週の礼拝で取り扱った箇所を別の角度から取り上げ、「向こう岸」とはどの様なところであるかを3つの角度から学ばせていただきたいと思います。
1)私たちの一人一人の使命がはっきり分かる所。
私たちの人生にも、湖の上の弟子たちのように、嵐や逆風のときがあります。この様なとき、多くの人がやる気を失い、前進する気すら失ってしまいます。
この様な試練は、一体何なためなのかと言いますと、それは「私」を鍛錬し、「向こう岸」で明らかにされる使命を果たすのに必要な力を得ることなのです。
冒頭の箇所で、イエスが果たされた「向こう岸」での使命は、誰からも打ち捨てられた悪霊のついたゲラサの男を救う事でした。この箇所で弟子たちが何をしていたのかについては、特に記述がありません。しかし、16節ではこのことをつぶさに見ていた者が、他の人間に証言してまわったことが書いてあります。従って、おそらく弟子たちはこの出来事をしっかりと見ていたと思われます。そしてこのことは、イエスが弟子たちに示された一つの見本であったと思われるのです。聖書とは主イエスがの姿を証したものです。それは神が我々にイエスと同じような歩みをするように勧めておられるからなのです。
さて、イエスな為されたことはどんなことだったか、整理してみますと、それは一言で言って「救いの御業」でした。つまりイエスは弟子たち、そして私たちに、誰かの救いに直接・間接関わってくることを期待しておられるのです。
2)「私」を必要としている者が待っている所。
ゲラサの男は、ほかの誰もが救うことが出来ない状態でした。そして、誰からも離れた顧みられることのないところにいたのです。私たちが救わなければならない人も、この様に救いを「最も必要としている」誰の手も届かないところにいる人間なのです。つまり、「私」だけがその人に届くことが出来るのです。
こう考えますと、「私」という存在は、この様な人を助けることのためにあり、また「向こう岸」に苦労して渡ったと言えるのでないでしょうか?
3)次の段階のための一つのステップとなる所。
イエスは、ゲラサの男を救われると、再び湖を渡り、べつの「向こう岸」へ行きました。我々の人生も、この様に何度となく次の「向こう岸」に向けて新たな出発を切るものなのです。そして、一連の使命がすべて果たされたとき、召天され、天国に行くことになるのです。すなわち、我々が召天するというときは、すべての使命が終了したときであり、それまでは生かされ続けるのです。この意味で、「湖の向こう岸」の延長線上には天国があるといえます。
ルカの福音書の並行記事を見てみましょう。
「さて、イエスが帰られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたからである。」(40節)
この様にイエスは、待ちわびられる存在でした。我々もこの様な存在になりたいものです。待ちわびられる人とはどの様なものなのでしょうか?
3つのポイントが上げられます。まず、事を起こそうとする人であり、さらに実行する人であり、そして結実のある人です。
私たちも社会においてこの様な者となるべきではないでしょうか。
最後に実生活への適用を見てみましょう。
1)まず、湖の向こう岸における各人の使命をはっきりさせる。
つまり、何を目的に人生を送るのかをはっきりさせると言うことです。
2)一つのステップ毎に、与えられたつとめを心を注いで行い、そして完成させることです。
これは今という瞬間を大切にすることでもあります。
3)一つのステップが終わった後には、次のステップがあることを意識しましょう。
要は、「今」のステップと「次ぎ」のステップに心を注ぐことだと言えます。
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