説教ノート(ある信徒の覚え書きより)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年11月16日

「いま生れし嬰児のごとく」

蔦田 直毅 牧師

ペテロの手紙第一 2章

中心聖句:

 「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」

1節〜3節

教訓:御言葉によるキリスト者の成長。


導入

今年も特別伝道会やユースキャンペーンなど大きな営みがなされ、初めて教会においでなった方もあられることですが、聖書やみ言葉にふれなさったことと思います。教会の中において、聖書やみ言葉は決して軽んじられてはならないのでありまして、昨今、み言葉の開かれない教会があることを聞くときに懸念を覚えることでありますが、聖書やみ言葉は私たちの生命線であることをとらえておく必要があります。

今から50年前、戦争の時にホーリネスの教会とその群れが迫害に遭いました。書物が取り上げられ、拘束された人たちにいろいろな意地悪な質問がなされ、教理的な質問がなされたことですが、きちんと答えのできた人とそうでない人とがあったことです。それは、み言葉を心にたくわえている人とそうでない人との間に歴然とした差が生じたからなのです。

今でも聖書を持つことが自由でない国があります。聖書をもっているだけで迫害に遭う国があるのです。そのようなことを思う時に、与えられているみ言葉の尊さ、また、あまりに手軽に手に入れることのできることのゆえに、み言葉の大切さを見失いがちなことに気をつけねばならないと思わせられることです。

10月31日は宗教改革の記念日でありました。改革の中心はもちろん「信仰によって義と認められる」ということでありますが、と同時に「聖書の権威が守られた」ということでもあります。ローマ・カトリック教会の権限が増すにつれ、教会、また法皇の権威が主張されていたことですが、マルチン・ルターらはそれに抗議するとともに、新約聖書をドイツ語に訳し、民衆に渡るように戦ったのが宗教改革です。それまでは、聖書は講壇に置かれ、限られた祭司によって開かれていたのですが、改革を通して一人一人が聖書を手にすることができるようになりました。そのようになってからまだ450年ほどしか経っていないことを思う時に、今の時代は恵まれていることを覚えます。

今日読まれた箇所は、イエスさまの一番弟子であったペテロが、ユダヤ教から回心した人々に対して書いたものであると言われています。キリスト教の教理を教えるという目的の他に、迫害に遭って散らされている人々を励まし、これからくる苦しみに備える意味もありました。また、置かれた環境の中で清い生涯を送るように勧めるためでもありました。

「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」「魂の牧者であり監督者のもとに帰ったのだ」ということをふまえ、キリストを土台として、その上にしっかり成長しなさいということが書かれているのであります。ここに、生まれたばかりの乳飲み子のようにみ言葉の乳を慕うように、というペテロの勧めに心を留めたいと導かれています。


ここには、3つのことが書かれています。

1)生まれたばかりの乳飲み子のように慕いもとめなさい。

2)すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、悪口を捨てて慕い求めなさい。

3)成長し、救いを得るために慕い求めなさい。


1)生まれたばかりの乳飲み子のように慕いもとめなさい。

乳飲み子とは乳を必要としている赤ちゃんのことです。一番栄養を必要としている時期であり、栄養を自分でとることができない時期でもあります。動物ならば数時間で立つものもありますが、人間は長い期間乳を必要とする状態にあります。神様は忍耐深く人間をつくっておられるのだなと思わせられることです。

 慕い求めるという言葉には、あこがれて待ち望んでいるという意味があります。継続的に待ち続けている状態であり、乳をくれるまで、おぎゃー、おぎゃーと泣き続けるのが乳飲み子であります。私たちはしばしばみ言葉をいただくことを失いがちです。今日は忙しかったからとか、昨日は遅かったから起きられないとかの理由でみ言葉をいただくことを断念してしまうことがあります。赤ちゃんのように渇いているだろうかと教えられます。

 乳飲み子が与えられるのは乳だけです。わかりやすい教え、かみ砕いて柔らかくした教えのことを比喩的に教えています。大人になると、堅い食物が必要になってきます。骨格をなしていく強いものを取り入れていくことが必要になってくるわけです。信仰においてイエスさまとの関係を深めていくことがそれにあてはまります。

 この手紙はユダヤ教からの回心者にあてて書かれています。彼らはある意味で堅い食物はいっぱい詰め込まれていました。モーセの十戒や黄金律など基本的なことは教えられていました。土曜日ごとに聖書講義がなされ、つめこみ教育が行われていたわけです。しかし、それらは火のついていない石炭やガソリンのようなもので、燃えれば力があるのだけれども、火がつくまではおかれたままです。み言葉の乳を与えることはそれに火を与えるようなものです。イエスさまの十字架の事実、よみがえりの事実などの新約の恵みをいただき、イエスさまこそメシア(救い主)であることをみ言葉の乳によってとらえる時に、はじめて堅い食物がわかるようになるのです。

 乳飲み子にはもう一つ教えられることがあります。それは、乳飲み子には乳を与えてくれる人が必要だということです。めんどうでも、そうする必要があります。キリストにあって生まれたばかりの人は、み言葉をいただこうと思ってもなかなか得られない場合があります。今では聖書を学ぶための資料や道具も手軽に手に入るようになりましたが、それでも導き手が必要なのです。教会の中で交わりの中に入れられるのは意味があります。それは、お互いに養われるという関係に入れられるためです。救われただけでなく人々に恵みを証詞することを覚えたいと思います。


2)すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、悪口を捨てて慕い求めなさい。

 この手紙はクリスチャンとなったお互いの中に偽善やねたみが入り込んでくる可能性があるということを指摘しています。捨ててという状態があり得るのだということを覚えたいと思います。これらを持ちながら、み言葉に近づくことを警戒しています。

 「悪意」とは何でしょう。これは一般的にいわれる悪そのものです。心の中にある怒り、悪いことを起こさせる心です。また、他の人が悪を行った時にそれを喜ぶような心です。

 「ごまかし」とは、愚かなこと、おべっかです。人の無知や弱みにつけ込むずるさです。

 「偽善」とは、宗教的な偽善のこと、また友情を裏切るという意味があります。心に悪意を持っていながら顔では正反対の顔を出すことです。人の前に聖徒のごとくあっても、心の中に罪を抱く時にその人の祈りは聞かれないことです。そのような二重性をもってみ言葉を求めても心の中に入ってこないのです。

 「ねたみ」とは、他人の幸せや富や成功をうらやむ心です。お母さんの乳を求める時に普通ならばライバルはいません。そこにライバルがいるということがねたみの心です。

 「悪口」とは、誰かに対して悪いことを言うことです。英語では「バック・バイキング」と言われますが、それは、後ろからかみつくということを意味しています。

 神様の前に讃美とのろいがでてくるようなことがあっては祝福をいただくことができません。これらを捨てて、まるで古い服を脱ぎ捨てて新しい服に着替えるようにみ言葉の前にでることです。愛を損なう一切を切り捨ててみ言葉の前にでることです

 どうしてこのようなことが言われなくてはならないのでしょう。それはパリサイ人や律法学者たちのことを考えても明らかです。彼らはイエスさまが権威をもって語っているのを聞いていても、そのお言葉が心に入ってこなかったのです。なぜなら、彼らの心には、イエスさまに対するねたみや、あげ足を取ろうとする悪意に満ちていたからです。貧しい人々や、教育のない人々が受け入れたやさしい福音が、心の中に入ってこなかったのがパリサイ人たちでありました。

 み言葉の前にでるときに、光があたったとか、照らされたとか言われることがあります。真実にみ言葉の前にでるときに心の中を探られるからなのです。


3)成長し、救いを得るために慕い求めなさい。

 成長するとは健全な赤ちゃんの姿です。ごはんが食べたくなくなったら成長は止むのです。成長にはその日その日に必要な糧をいただく必要があります「日用の糧を今日も与えたまえ」と先ほど祈らせていただきました。「汝の力は日々もとむるところに従わん」とのお言葉もあります。魂の成長もそうなのです。救われてみ言葉を欲しがるのは健全な証拠です。

 「救いを得る」との箇所は、「成長していくためだ」と書かれているものもあります。クリスチャンになるというよりは、クリスチャンが完成される姿ととらえることの方が適切です。回心してクリスチャンとなった者たちが、み言葉を慕って完成していくように教えているわけです。キリストが土台として据えられたから、すばらしい救いに入れられたから、完成に向かって走るように招かれていることばなのです。神様は、成長したい、成長したいとの要求を心に与えて、み言葉を通して答えてくださるお方なのです。み言葉には、成長させ、完成させてくださる要素がすべて含まれています。

 ある人は聖書のことを「神様のラブレター」であると解説しています。昨今、電報に替わって、電子メールが使われるようになりました。必要なときに送って必要な時に取り出すことができるのが電子メールです。ケニアの竿代先生に昼間連絡を取りたいと思ってもむこうは夜間ですから電話することができません。しかし、電子メールを送っておくとケニアが昼の時に竿代先生のパソコンが立ち上がるとメールを取り出すことができるというわけです。しかし、電子メールが届かないことがありますその欠陥の理由の一つは、何らかの理由でそれが開かれないからなのであります。聖書には神様のメールがいっぱいとどまっています。いかに多くの人たちがみ言葉をいただかないためにつまづいたり、信仰から離れてしまうことでしょうか。ある人にはミルク、ある人には栄養となるみ言葉をいただき、救いの完成をめざして進ませていただこうではありませんか。


しめくくりに

 聖書を人生のできるだけ早い時期から読むことを勧めます。そのポイントとして、 

1.毎日読む

2.規則ただしく読む

3.正しい集会、教師に聞き続ける

ことです。

 神様の前の聖い生涯は、み言葉なしにはあり得ないということを知ったクリスチャンであらせていただきたいと思います。

 今週もみ言葉を慕いつつ歩ませていただきましょう。
 created on 971109 (by S. Hebisawa, edited by K. Ohta)