説教ノート(ある信徒の覚え書きより)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年11月30日

「これらのことを書き送るのは」

蔦田 直毅 牧師

ヨハネの手紙第一 2章1〜17節

中心聖句

「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」1節

 教訓:クリスチャンと教会の成長


導入

来週からクリスマスに備えた特別なメッセージが語られますので、通常の説教は今日が今年の最後になります。

今日は、ヨハネの手紙の中から、我々クリスチャン一人一人の成長が教会をも成長させるということについて、メッセージを取り次がせていただきたいと思います。

さて、教会とは何でしょうか?簡単には、神の子どもとされたものの集まりといえるでしょう。聖書ではさらに、教会がクリスチャン同士の真実な交わりにより、豊かになり高められることが何度となく説かれています。この意味で教会は、単なる社会的共同体と言うよりは、「家族」というイメージに近いものです。教会には、会社のような退職はありませんし、学校のような卒業もありません。赤ちゃんから老人に至るまで、神を信じる者が、皆死を迎えるまで集うことができる場所なのです。

ヨハネはイエスの十字架後約50年を経た頃、教会にあててこの手紙を記しました。この時期になりますと、さすがに直にイエスを見た者はかなり少なくなっており、教会が最初の教えから少し変質した教えに影響を受けるようになります。ヨハネが手紙を書き送ったエペソ周辺の教会では、ギリシャ哲学に源を発するグノーシス主義という異端思想がはびこっていました。この考えは、知識重視主義(知識がないと天国にいけない)と二元論(世界は善と悪、それに対応する精神と物質の二つの世界に二分できるとする考え)を特徴とするものでした。

グノーシス主義が異端視されたのは、精神と物質(肉体)の分離を強調するあまり、イエスの受肉・人間性をも否定したところにあります。つまり、イエスは神が人間となられた実体ではなく、あくまでも幻影として存在していたと考える点が異端視された理由なのです。

また、この思想は悪の属する肉体を、善なる例の存在と分けたために、二つの極端な動きを教会にもたらしました。一つは、肉体は所詮悪であるが、霊はそれから分離しているので、肉体は何をやろうと構わないと主張して、無節操な快楽主義に陥る人間が出て来たことです。これとは反対に、悪なる肉体を徹底的に痛めつけてそれを抑えようとする、極度の禁欲主義も現れ始めました。

この様な考えが広まることを恐れたヨハネは、自分がイエスに実際に合って触れた経験を告白し、誤った考えを明確に否定しておきたかったのです。(5章13節参照)彼はこの書を書いた理由について、何度となく言及していますが(1章4節、2章1、7、8、12、13(2回)、14(3回)、21、26節、5章13節)、それほど教会員に間違った教えに入り込んでもらいたくなかったのです。

ヨハネは教会を構成している人間を大きく4つに分けました。第一は「父」と呼ばれる指導者たちで、この人たちは教会を監督し、まとめる役割を持っていました。次ぎに、「若い者たち」と呼ばれるグループがいて、この人たちは信仰的にはまだ若いが、実際的にキリストの手足となって活動する実働世代の人間として捉えられます。さらに、「小さい者たち」というキリストを信じるようになってまだそれほど時間がたっていない者、そして「子どもたち」というつい最近信仰にたった霊的には生まれ手間もない者がいました。この様にヨハネは、ある特定の階層の人間のみを対象に語ったわけではなく、教会の指導者層から、入りたての信者に至るまで、あらゆる段階の人にこの手紙を書き送ったのです。

さて、本題に入りたいと思います。今日の本題は、ヨハネが書き送った理由についてですが、それは大きく分けて次の3つが挙げられます。
1)あなた方が罪許されてクリスチャンとなったことを知って欲しかったから。
2)あなた方が神様の御心を知りつつ歩む者とされていることを知って欲しかったから。
3)あなた方が勝利者とされていることを知って欲しかったから。


1)あなた方が罪許されてクリスチャンとなったことを知って欲しかったから。

神の前には、白と黒しかなく、灰色はありません。つまり、クリスチャンとそれ以外の者の区別しかないのです。日本人はよく個人の中に罪の意識がないと言われます。また、罪が他者との相対的関係で定義されるとも言われます。つまり、「他人がやっていれば善、やっていなければ悪」という実に他者依存的な善悪の判断しかできない人が多いのです。しかし、いくら多くの人間がやっていても、神の前に「悪いことは悪い」のです。世の悪や欲を中心とする生活から離れ、真実に罪から離れた生活を送るように変えられることをクリスチャンになると言うのです。

以前の田代先生のメッセージに「神がきよいからあなた方も当然きよくなる」というものがありましたが、実にクリスチャンというのはそのような存在なのです。


2)あなた方が神様の御心を知りつつ歩む者とされていることを知って欲しかったから。

 7節では、ヨハネが言っていることが、昔からの聖書の言葉にすぎないことが強調されています。つまりヨハネは、何も新しい教えに従えと言っているのではなく、昔から神によって示された教えに従っていれば良いのだと言っているのです。これは一言で言えば、クリスチャンになった限りにおいて、神の示す聖書の言葉と光の中を歩みなさい、ということなのです。そして強調しておかなければならないのは、私たちの進むその先には、イエスご自身の姿があるという事です。イエスと言う具体的なモデルがいらっしゃるのですから、単に教えを勉強するのとは違って、具体的に何をしたらよいかと悩むことはないはずです。教会というものは、人それぞれ違う形であっても、イエスに倣おうとする者たちの集合でなければなりません。

この様なことを、教会における"SHARE(共有)"と言います。これは、みことばの学び、霊的な経験、祈りの積み重ねなどのことを一人だけでなく、教会全体として共有すると言うことで、教会員の特権の一つです。例えば、ある教会員が祈祷会で、「これこれこういう問題があって祈りを必要としています」と告白したとします。そうしたら、教会全体でその問題を自分のことのように考え、真実に祈ることを共有というのです。この様にあらゆる事について、他人事でなく自分の問題として共有することで、一人では得られない大きな神の助けや恵みを得ることが出来、教会全体が大きく成長していくのです。


3)あなた方が勝利者とされていることを知って欲しかったから。

 このポイントは、クリスチャンが決して敗北者の道を歩んでいるのではなく、勝利者の道を歩んでいることの確認です。つまり、光の中をしっかり歩んでいれば、決して悪に負け、自分に負けることもないのです。


今日取り上げたヨハネの手紙の内容を見て、自分の状況とヨハネの言う理想との間に違いが見られたと思われるようなら、早速あらためて、光の中を歩み直しましょう。ここで悔い改め、いつまでも負け犬のような惨めな人生を送らないようにしましょう。そうすれば私たちは、自動的に神の国に加えられる勝利の道を歩むことが出来るのです。しっかりと光の中を歩み、一人一人成長し、そしてそこから教会全体の成長が果たされるようになりましょう。


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