説教ノート(ある信徒の覚え書きより)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年12月7日

「定めの時が来たので」

井川 正一郎 牧師

ガラテヤ人への手紙 4章1〜7節

中心聖句

「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。」4節

 教訓:定めの時としてのクリスマス


導入

今週から三週間に渡って、クリスマスに備えた特別なメッセージが語られます。

クリスマスは、神が我々人間に対して備えておられた計画が、今から2000年ほど前の「定めの時」に成就したものです。その意義については新約聖書に様々な角度から取り扱われています。マタイやルカの福音書ではクリスマスが確かに起こった歴史的事実であることが強調されています。パウロ書簡では、神の御子なる主が人という卑しい身分に下ってまで、我々をお救いになられたことが書かれています。ヘブル書では主イエスが我々人間の真の大祭司となられたこと、ヨハネの福音書では神の世界の舞台裏から見たクリスマスに焦点が当てられています。

今日はこの出来事が私たち一人一人とどの様なかかわり合いを持つかという事についてメッセージを取り次がせていただき、神の御旨を理解させていただきたいと思います。

「定めの時」にはこれからお話しいたします3つの意味があります。


1)神ご自身が定められた時

「あなたのうちから、私のためにイスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」

(ミカ書5章2節)

クリスマスは、神ご自身による計画であり、決して人間が定めたものではありません。つまり、人間の罪のあがないにはクリスマスが必要であり、歴史のどこかで人間の目に見える形で示されなければならないと神が考えられたからこそ、クリスマスの出来事があったわけです。

ここで時間という問題について考えてみましょう。聖書では元来時間というものがなかったとあります。これは、絶対不滅の存在である神においては時間の区切りというものが意味をなさないからです。ところがエデンの園で人間が罪に落ちたとき、人間には「死」が与えられました。ここにおいて人間は「死」と言う時間の区切りが出来たことになります。

聖書的に神と人間の間にある「時間」の意味を捉えますと、1)神のあわれみの期間、2)人間の悔い改めが許されている期間、3)審判という締めくくりが予定されている期間、の3つの意味があります。現在はまだ猶予の期間にあるわけですから、悔い改めのチャンスはまだ残されているわけです。この意味で、2000年前に起きたクリスマスの出来事は、まだ有効期間が切れていないことになるわけです。


2)我々人間に最も必要でふさわしい時であった。

 クリスマスがなぜ今から2000年前に起きたのかという事については、その時期が様々な理由から最も神の目的にかなった時であったと言われています。ケアンズ著「基督教会史」(1953年3月25日初版、聖書図書刊行会発行)に「時満ちて」と言う題名で次のような記述があります。「この地上における準備がすべて整ったときにキリストが来臨されたのである・・・。」

 第1の条件は政治的なものであり、当時地中海周辺諸国はローマ帝国として統一され、教義が広がりやすい平和的な環境が整っていたことです。第2の条件は言語学的な見地で、当時「コイネー」と呼ばれていたギリシャ語が統一言語として通用していた事です。次の条件は、宗教的要素で、ギリシャ文化やローマ人の宗教観では人間の根本的満足が得られなかったこと、またユダヤ教の存在により唯一神教の予備的バックグラウンドがすでに広がっていたことがあります。

 これらのことから、まさに2000年前と言う時期は、まさにクリスマスが起きるのは打ってつけの時期であったのです。そして、クリスマスに始まったあがないの期間は、まだ続いています。ここで言うまでもないことは、クリスマスが必要とされているのは今を生きる私たちも同じ事であるという事です。


3)受け取るときである

 5節には

「これは律法の下にある者をあがない出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」

とあります。この様にクリスマスは、我々一人一人が神の子としての身分を頂く時であり、親としての神から相続分を受け継ぐ事が出来ることを示しています。エペソ書1章10節〜14節参照。

 この相続するものは何かと言いますと、イエスの品性や人格などを含むものです。私たちにとってクリスマスとは、これらの神の国にふさわしい属性を「受け取る」ときと言う意味を持っています。

 この「受け取る」と言うことの行為には、いかの3つ特徴が含まれます。

i)受け身の姿勢。自分から選択するというものではなく、与えられるものを受け取るという事です。ここでは自我が突出することのない、「受け手」としての謙虚さが求められます。

ii)供与者への信頼。与えてくれる方を信じないで受け取ることは出来ませんね。

iii)供与されるものへの信頼。与えられるものが本当に良いものであると信じることです。

神様から与えられるものを受け取るとき、これらのことはきっと満たされているはずです。つまりは、「信仰を持って受け取る」と言うことに他なりません。

神が与えようとされている「クリスマス」を信じて受け取ること(=イエス・キリストを信じること)により神の国にふさわしい主イエスの属性が我々のものとなるのです。この意味で、クリスマスは神と我々人間が一つになれると言う深遠な内容を含んでいると言えましょう。


最後に実生活への適用をまとめてみましょう。

1)神は我々に常に良いものをお与えになろうとされていることを知りましょう。

2)私たちにとってキリストは必要不可欠な存在であることを知りましょう。

自分を神様にして頼って生活しても、そこには自ずと限界があります。この様な不自然な生活をあらため、神に委ね、信じる人間本来の人生を歩みましょう。

3)神様が与えて下さると約束されているものを、今すぐ手を伸ばして受け取りましょう。

人間は往々にしてこういう真実な恵みを受け取らずに、先延ばしにする癖があります。ここで勇気を持って手を伸ばして受け取りましょう。そこには、必ず神の祝福があります。


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