説教ノート(ある信徒の覚え書きより)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年12月14日

「王は...何処に在すか」

蔦田 直毅 牧師

マタイの福音書 2章1〜12節

中心聖句

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みに参りました。」

2節

 教訓:クリスマスをどの様な気持ちで迎えるか


導入

今朝は、マタイによる福音書の東方三博士に関する記事から、クリスマスと私たちの関係を捉えさせていただきたいと思います。

冒頭の箇所では、東方の三博士が、救世主の訪れを示す星の出現を目にして、わざわざ遠くのエルサレムまで訪れ、当時のユダヤの王であるヘロデ王に質問した内容です。今朝はこの質問の意味を、三つの観点から捉えさせていただきたいと思います。


1)博士たちにとってどんな意味を持つ質問だったか?

東方三博士は英語ではMagi(マギ、メイジャイ)と呼ばれます。この言葉は、Magic(魔法)と関係のあるもので、魔術師・星占い師と言う意味や、科学者・学者と言う意味あいもある言葉です。「博士」意外に「賢人」と言う訳も見られます。カトリックでは、この三博士に、カスペル(カスパー)、メルキオーレ(メルキオール)、ベルサザル(バルタザール)と言う名前を付けています。またもう一人遅れてきた博士がいて、その博士はアルタバンと言うそうです。どこから来たかは聖書に詳しい記述はなく、おそらくメソポタミヤ方面から数週間あるいは一〜二年の期間をかけて来たものと考えられています。もっと別の説では、中国や日本から来たという来たというものもあります。彼らは、学者階級に属した指導者階級の顧問的な人物であったと思われます。いずれにしても遠い距離から、黄金、乳香、没薬を携えて、治安にも不安のある地域を横切ってやってきたわけです。こういう人たちがわざわざエルサレムに来たことは、当時の人たちにとっても驚きであったわけです。

三博士は「星」を見たとあります。この救世主の出現を示す星については、民数記24:17節に「ヤコブから一つの星が上がり」と言う記述があります。三博士はこのことを知っていて、それを見て、約束のメシヤの星と確信して遠い道のりを旅してきたのです。この星は不思議な動きをしたようですが、どんなものだったかにはいくつかの説があります。あるものは、木星と土星がその時に重なって見えた(前五年に会合があった)とするもの、あるものは特別大きな彗星が来たとするもの、ある種の超新星爆発があったとするものもあります。

ここで強調したいことは、博士たちが星を見て新しいユダヤの王の誕生を心から喜び、また多くの犠牲を払って祝福しに来たという事です。彼らにとってイエスは、心底メシヤ・救世主であったのです。


2)ヘロデ王にとってどんな意味を持っていたか?

 ヘロデ王はイエスが誕生した当時のユダヤの王でした。彼は民数によって選ばれたわけではなく、ローマ帝国の傀儡政権の王にすぎませんでした。彼は本来ユダヤの王が出るべき家系ではない、エドム人(エソウの末裔)の出であり、民衆からも必ずしも支持されていない王でした。彼は大変独占欲が強く、王の地位を脅かすものが出てくると次から次へと葬り去りました。事実彼は自分の子どもですら三人も殺しています。

 この様な人物にとって、東方三博士の質問「ユダヤ人の王として生まれた方はどこにいますか」と言う質問は、まさに神経を逆撫でするものであったことは想像に易いことです。彼は三博士を見送った後、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の子どもを皆殺しにした(16節)が、そのころイエスはヨセフとマリヤとともにエジプトにおり、この難を逃れたのです

 このヘロデ王の事を見てみますと、救われてはいてもきよめられていないクリスチャンのことを思わざるを得ません。こういう人たちはヘロデ王のように神の名において様々なことをしますが、それは建て前や表面上のことであり、心の実質が伴っていないことがあるのです。これはこれらのケースでは、実は神様よりも自分がまだ心の中心に居座っていて、一種御利益宗教のように神から自分が祝福されることばかり考えているのです。いわば自らの心が、イエスのライバルになってしまっているのです。この様なことになっていないか、今一度自らを吟味してみましょう。

 三博士を迎えたもう一つのユダヤ人のグループは、ユダヤの祭司長たちです。彼らは文字どおり、ユダヤ教の指導者でした。彼らは聖書の知識においてはほかに右に出るものがいないほど精通しており、三博士の質問に対してもすぐに「ユダヤのベツレヘムです(5節)」と答えています。っしかし惜しむらくは彼らの知識は頭の中のことだけであったようです。彼らにとってメシヤの到来は単に知識の上のことのようであり、よしんば壱百歩譲っても、自分のイメージした形通りにメシヤが現れなければ信じなかったようです。私は皆さんにこういうクリスチャンにはなってもらいたくありません。つまり、聖書の知識は人一倍あるのだけれども、ちっとも実生活に反映されないと言うようなクリスチャンのことです。みことばを我々は学びますが、その実現は自分のイメージした形で果たされるとは限らないのです。その時、本当に心の信仰を持っている人は、どの様な神の応答に対してもアーメンと応じることが出来るのです。

 また、一般のユダヤの民についてみてみますと、当時の民たちはローマの圧政に苦しんでおり、一方で期待を持ちつつも、もうこれ以上厄介なことは加えないでくれという気持ちもあったようです。結果として、これらの多くのユダヤの民にとってイエスの誕生は、恐れたり、戸惑ったりするものでしかなかったようです。


3)私たちにとってどういう意味があるか?

 最後にこの質問は私たちに向けられます。私たちは、当時のユダヤの民と同じように、クリスマスを自分たちと無関係な厄介なことと捉えるのでしょうか?私は、まだイエス・キリストを自分のものとされていない方には、「私の王」としてお迎えしていただきたいと思います。また、聖書のことだけしか頭に入っていない人がいましたら、是非このお方を「心の主」としていただきたいのです。なぜならこのお方を心の主として迎え入れないクリスチャンは本当に寂しいものだからです。こういう方は、ヘロデ王や、世間の御利益宗教を信じている人たちと大差ありません

 今日、イエス様を心の主としてお迎えし、心の王座についていただきましょう。イエスを証しするという事は、この心の中に生きておられるイエスを証しすることなのです。


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