説教ノート(ある信徒の覚え書きより)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

97年12月28日

「感謝を捧げてから裂いて」

蔦田 直毅 牧師

ルカの福音書 22章7〜38節

中心聖句

「それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。』」19節

 教訓:本当の意味での感謝の気持ちで聖餐式に臨む


導入

今朝は、97年最後の礼拝で、1年を締めくくる聖餐式を行います。この聖餐式に臨む前に、本当の意味での神への感謝について、メッセージを取り次がせていただきたいと思います。

本当の意味での感謝とは、一言で言ってしまいますと、全てのことに対して感謝することです。この全てのことには、もちろん喜ばしいことも含まれますが、そうでない、自分にとっては苦難以外の何ものでもないことも含んでいます。このようなことは一般的には、感謝の対象としては受け入れがたいことでしょう。ではなぜクリスチャンにとってこのような苦難が感謝の対象になるのでしょうか。

その最大の理由は、クリスチャンが神の愛にあって救い出され、神の手の内に生かされていることを確認し、感謝するという立場に立っているからです。つまり、他のこと全ての感謝の背景には、あがないに対する感謝というものが控えているのです。

今年最後の聖餐式を前に、冒頭におけるルカの福音書の一説から、この贖いの恵みに対する感謝について、学させていただきましょう。


「感謝をしてパンを裂き」とありますが、この最初の聖餐式の出来事は、ユダヤ教の過越しの食卓の前で繰り広げられました。今日はこの場面で行われた「感謝」について、3つの角度から焦点を当ててみたいと思います。

1)過越しの食卓への感謝

17節には、イエスが感謝を捧げた後に、聖餐が行われたことが書かれています。この感謝には、大きく分けて、神が食卓を備えてくださったことに対する感謝と、過越しに対する感謝の二つの内容が含まれています。

過越しの祭りとは、ユダヤの民がエジプトからモーセの指導によって救い出されたことを記念して行われる儀式です。そこには、当然神の奇跡的な働きによって救い出された民族の感謝の気持ちが込められるのですが、この過越しの祭りには過去の出来事に対する内容だけでなく、後でふれるイエスの十字架という未来の出来事に対する象徴も含まれています。


2)主による贖いの成就に対する感謝

 その未来の出来事とは、イエスが十字架にかかって、人間の罪を背負ってくださるということです。この目的のためにイエスは世に現れたので、このことはイエスの強い望みでした。そのことの成就が近づいたと言う時に、イエスは神に感謝の祈りを捧げられたのです。

これは私たちの側からとらえますと、地上において受けるべき栄光をいっさい拒み、そして仕える者の立場、私達と同じような低い立場の人間として一生涯を終えられ、十字架にかかって人間の罪の贖いをされた、イエスへの感謝です。

最愛の方を天に送ると言うことは、私達の日常でもつらいことではありますが、そのような方やイエスと天国で再会する望みがあるという点で、キリスト教は大変希望に満ちた教えなのです。


3)これから迎える出来事に対する感謝

 聖餐の食卓の出来事は、ユダの裏切りの直後に行われたものです。つまりイエスはこの時点で、この後どの様な酷いことが自分に降りかかるかを知っていながら、神に感謝していたのです。つまり、イエスの感謝には、これから起きる事柄についての内容も含まれていました。

これに対し弟子たちはというと、誰が一番偉いかを議論しているというていたらくでした。しかし、このような弟子たちもまた、やがて心を一つにして信仰を強めることができました。そして、その後に起こるローマの迫害による大変な苦難を受けるの及んでも、それを神に感謝して受け入れることができたのです。なぜ彼らがこのようなことができたかと言いますと、彼らがこの場面でイエスの血肉としてのパンと杯を共にしたからなのです。

私達の教会では、人数が多いなどの物理的な問題から、各個人の杯を用意していますが、聖餐式の本来の形は、一つの杯を右の人に回して、次から次へと回し飲む、という形態のものでした。これは、神への感謝の姿勢として、感謝を表すべき者たちが心を一つにするということが大切であるということを教えています。

このように、聖餐式では、クリスチャンの心を一つにして神に感謝するべきなのです。


今年の締めくくりとして行われる聖餐式で、主が裂かれたパンと杯を、心を一つにしていただき、今年とこれからのことに対する感謝を表しましょう。


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