礼拝メッセージの要約


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年1月4日

「ヨルダン川を渡れ」

井川 正一郎 牧師

ヨシュア記 3章1〜17節

中心聖句

「全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下ってくる水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。。。。ついに民は全てヨルダン川を渡りきった。」13〜17節

 教訓:年頭における神様の私達へのメッセージは?


導入

激動の年と言われた1997年を終え、いよいよ1998年、教会建立から50周年の年となりました。多くの識者と呼ばれる人が、今年はより厳しく、大変な年となるだろうと語っています。しかし、クリスチャンである私達は、神への信仰があり、神へ頼っていれば、どの様な局面にいたっても心惑わされないはずです。それは、聖書というものがどの様な世の中であれ通用する対処の方法を教えていてくれるからでもあります。つまり、世の中がどの様に動こうとも、聖書全巻のメッセージをしっかりととらえることで、力強い歩みをすることができ、またあらゆる答を得ることができます。

ただ、人間はどうしてもこのような考えが、歯がゆい、現実的でないと考えがちです。これは世の中の動きの早さに原因があるというより、実はその人自身の信仰に問題があるからそう感じるのです。困難な時代に直面したとき、本当に改革をすることができる人は、真の信仰者だけです。こういう人は、問題に対してまず神の教えを請い、真実に祈り、そして勇気を持ってそれに立ち向かっていくのです。

今日の年頭のメッセージは、約束の地への前進を扱う年頭メッセージシリーズの第一回目のものです。今日取り上げる題は「ヨルダン川を渡れ」です。ちなみに次回は、「立ちはだかるものはいない」です。今日神様が年頭に当たって我々に示されたメッセージを取り次がせていただきたいと思います。


 神様はなぜ「ヨルダン川を渡れ」とおっしゃったのでしょうか?その理由は大きく分けて二つあります。

1)ヨルダン川をわたることが神の御心であるから

 ヨルダン川を渡るとそこには何があるでしょうか?そう、そこには約束の地がありました。約束の地=カナンは、聖書によりますと大変豊かな土地でありました。

 例えば申命記8章1〜9節をみていただくと、約束の地には潤いがあり、豊かさがあり、何一つ足りないものがない、と書かれています。またそこは、神を新たに証しする土地でもありました。つまり、約束の地に着いたからと言ってそこで進歩が止まってしまうのではなく、そこが新しい希望の出発点になっているのです。ヨシュア3章10節によると、ユダヤの民はカナンでその土着の7部族を滅ぼしたとあります。これは、新しい出発点に立って、悪を駆逐し、信仰を深め、勝ち取っていくことの象徴としてとらえることができます。ここから何が学べるかと言いますと、ヨルダン川を渡って安心していてはいけないと言うことです。本当に意味があるのは、約束の地についてから、さらに信仰が成長するかにかかっていると言っても過言ではありません。この意味で、クリスチャンは現状維持の姿勢だけでは許されないのです。


2)ヨルダン川の流れがせき止められているから

 15〜16節では、水の流れがせき止められ、民全体が川を渡ったとあります。ヨルダン川は、直線距離で100km、総延長で300kmの長さがあり、幅は広いところで20kmあります。冒頭の箇所でユダヤの民が渡ろうとしていた箇所は、だいたい20〜30mぐらいの川幅があったそうです。しかし河川敷に相当する茂みが約1km位あり、しかもこの時期には雪解け水と雨期の増水のため、川幅は1km近くにもなっていたと推測されています。これは大変な増水の時期であったととらえることができます。こういう時期に川を渡ると言うことは、大きな冒険です。ところが、神様はここで超自然的な働きをされ、祭司たちが川に足を踏み入れている間、川の水をせき止められ、民を渡りやすいようにしておられました。

 このことは、神が川を渡れとおっしゃられているときには、渡れるだけの準備が神の手によってなされていることです。ここに留められている要点を3つ取り上げてみましょう。


a)川を渡ると言うことは、神の栄光ある奇跡の御業である

 これは一言で言うと、人間のできる技ではないということです。もし人間ができる程度のことであれば、「この出来事はわたしがやった」というような人物がでてくるでしょう。それではこの出来事が神から出て来たことを民が心底知ることはできないのです。神はこのように不可能と思われるようなことを、奇跡を起こしてでも解決されるお方なのです。

b)川を渡ると言うことは、神の取りなしの御業である

 13〜16節では、祭司が水に足をつけている間、川の水がせきをなして立ち、民全体が安全に「約束の地」へ渡ったと書いてあります。これは、「神様の取りなし」ととらえることができます。

 冒頭でも語りましたように、今年も去年同様の激動の年となり、様々な問題が起きる可能性があります。今日のメッセージでは、これらの問題を神様が私達のために留めてくださり、約束の地へ導き、取りなしてくださると言うことが示されています。

 ここでのポイントは、「流れが神の御業によって留められていた」ということです。これと似たようなことがルカの福音書7章11〜15節にも書いてあります。ここではある人の一人息子が死に、その死んだ一人息子をかついで人々が歩いていたところにイエスがやってきました。そして、イエスがその場にやってきますと、かついでいた人たちが立ち止まったとあります。そして、イエスはその死んだ一人息子を哀れんで、蘇らせたのです。つまりここでも、死者の葬りの場所への歩みが「留められ」、奇跡がなされたのです。

 「ヨルダン川」は我々にとっては、目の前におかれている最大のハードルであり、それを越えることにより大きな霊的成長の場(=約束の地) があるわけです。神は、そのハードルを低くされ、我々が大きく開かれた道を通れるように取りなしてくださるのです。すなわち、神は現在の崩れるような困難な状況を留め置かれ、問題解決のしやすい環境を用意されているのです。後は、それを信じてそのハードルを越えるだけです。

c)川を渡ると言うことは、神のあわれみである

 このように流れがせき止められている時は、ある意味で神が我々に与えられた執行猶予の時間です。この一年神様は、流れを止めてくださると語られています。

 一つ注意していただきたいことがあります。この執行猶予の時間は、一番ゆっくりしている人でも、信仰さえしっかりと持っていれば、悠々と渡ることができるほど、十分な時間であったということです。だからこそ、民全体がヨルダン川を渡り終えることができたのです。だからこそ、この時間は神の哀れみの故に我々に与えられた捉えることができるのです。渡るのはマイペースで結構。要は全員が真実な信仰を持っていることが大切です。


今日のメッセージがはっきりしてきました。それは、「流れをせき止めているから、その間に渡りなさい」というものです。最後に実生活への適用を見てみましょう。

1)身を清めましょう。

5節では、川を渡る前に身を清める必要が書かれています。これは具体的に言いますと、自分の心から罪に傾く心を切り離し、自らを神に捧げ、全くの信頼を神に預けるということです。

2)渡りましょう。

せっかく神が用意された機会でも、我々が渡らなければ何にもなりません。そしてもし渡らなければ、哀れみの時も終わりを告げるのです。

これらのことをふまえ、この一年、新たな地に踏みいだしていきましょう。


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