礼拝メッセージの要約


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年1月11日

「汝等しずまりて」

蔦田 直毅 牧師

詩篇 46篇全体

中心聖句

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。

万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。」10・11節

 教訓:激動の時代、心を静めて主の導きに従う。


導入

今週と来週は教会総会を控えて、心ぞなえの週です。また、FEBCのラジオ放送のための録音を行う日です。そして、平瀬義樹牧師を国外宣教の準備のため、シンガポールに送る日でもあります。

先週の井川先生の話でも、ここ1〜2年が激動の年であることが取り上げられました。このようなとき、神を考えに入れない人たちは、まったく先の見えないトンネルの中で、あたふたしてしまいがちです。クリスチャンも例外に漏れず、このような激動の時代において実際に生きると言うことは、戦いの連続でありましょう。このような時代の流れを、その手の内で動かしておられる方がどなたであるかを、しっかりと確認したいものです。

今日取り上げる箇所は、宗教改革者として知られる、「マルチン・ルターの詩篇」と呼ばれる一篇です。この箇所は、多くの方が、苦難にあるとき励まされる箇所でもありましょう。この箇所は、大きく分けて3つの部分に分かれます。まず最初の部分は、1〜3節で「神の力」を表した部分です。次に、4〜7節の部分で「神の臨在」を表しています。最後の部分は、8節以降で、「神の平安」を表現しています。英語で言うとどれもP(power, presence, peace)という頭文字で始まっていて、3つのPとまとめることができます。この中の「臨在」という言葉は、「存在」という意味に加えて、意志を持ってそこに臨むという意味がこめられています。

この箇所で、今日中心的に取り上げるのは、

やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。

という節です。今日この「やめよ」、あるいは「静まれ」という神様のメッセージの意味を、3つの角度から捉えさせていただきたいと思います。


1)「やめよ」という言葉の意味

 この言葉の元々の意味は、「静まる」、「リラックスする」、「手を引く」というものです。この言葉の意味は、様々な研究者が、いろいろな解釈をしているところでもあります。例えば、「神の怒りを引き起こすことを全てやめよ」というもの、「神に対するつぶやきをやめよ」というもの、「神への反逆・罪をやめよ」というものがあります。

 基本的のこの章では、神の偉大さが強調されていて、天変地異のことが記されたあと国々が争いあうことが書かれています。神はその争いから信徒を守り、やがて戦いを終えさせます。ここでは、つまらない争いに明け暮れること自体が、神の御手の上で動かされていることにも気がつくはずです。このような神の視点から世の中の動きを見ることができる、これがクリスチャンの特権の一つであるといえるでしょう。

 したがって、この「やめよ」という言葉は、危機に際して人間的な小細工をすること止め、神が我々に与えられる導きについて落ち着いて考えなさい、ということを言っているのです。


2)「やめよ」という言葉が向けられた対象は?

 この言葉が向けられた対象としては、神への敵対者と、攻撃を受ける神の民の二つがあります。1節では「神は我らの避け所」とあり、7せつでは「万軍の主はわれらとともにあられる」と書かれていますので、このような文脈から考えますと、この「やめよ」という言葉は、争いに明け暮れる人間に対するものであると考えられるでしょう。

 しかし、この言葉は我々に対しても向けられているといえます。つまり、激しい争いや葛藤の中、神の前に誰彼ともなくひれ伏し、静まることが必要であると説いているのです。

 最近、召命を受け、献身をすることになったある青年が祈祷会で証をされました。それは、献身の決心をするとき、8時45分の状態だったというのです。よく聞いてみますと、これは「水戸黄門」になぞらえていることで、この時間帯になると黄門様が印籠を出して、「ひかえおろう!」という場面になることと結びついていました。この青年は、決心に至るまでに様々な働きかけがあり、最後は黄門様の印籠が出されたときのように、「はは〜っ」と頭を下げて受ける状態になった、というのです。

 この場面のように、神の前には誰彼なく、身分の高い低い関係なく、頭を垂れて静まる必要があるのです。やれ、彼は経験が浅いだの、まだ若いだの、信仰のキャリアが違うだのと言うようなことは、神の前に何の意味もないことなのです。要は、いかに神の前に真剣に頭を垂れ、その意図するところを聞くことができるかと言うことなのです。「信仰のベテラン」だからといって、安楽なイスに座ることは誰もできないのです。

 よくあるクリスチャン特有の間違った思いこみに、「わたしはクリスチャンなんだから、クリスチャンらしくしなければ」というものがあります。こういう考え方は、自分の心にたがをはめるようなことで、自分を大変苦しめるものです。本当のクリスチャンらしさというのは、こういう個人の「思いこみ」や、「あがき」によって獲得されるものではありません。クリスチャンらしさは、あくまでも神の恵みによって与えられるということをよく理解する必要があります。心鎮めて、神様の導きと恵みを待ち望む姿勢が大切なのです。


3)「やめよ」という言葉が示された理由は?

 これは一言で言うと、主なる神様が全てを治められておられることを知りなさい、ということになります。

 主牧が召天してから2年間、わたしが実感していることは、教会が主によって治められているということです。教会の祝福は全て神の手の内にあり、またそれは神から出てくるものに他なりません。

 クリスチャンにとっての「勝利」とは、世の中のありきたりの勝利とはちょっと違います。クリスチャンは神の見守りの中にいますが、だからといって戦いから逃れられるわけではありません。しかし、その戦いを終えたとき、必ず神の栄光を賛美できるようになっているのです。これが、クリスチャンの言うところの「勝利」となります。

 その典型例は、ヨブ記のヨブに見ることができます。ヨブは全財産と家族を失い、その健康や友人も失い、大変な困難に直面しました。しかし、彼は最後まで神への信頼を失うことなく、最後には勝利し、世的に見ても大きな恵みを受けることになります。ここで、ヨブの試練の一代記に目がいってしまいがちですが、この物語の本当のポイントは、ヨブの信仰の成長にあるのです。このように、試練に入りますと多くの人はその試練に心が奪われ、その機会が信仰の成長の時である、という視点を失いがちです。試練にあればあるほど、その後ろにある神を信頼し、試練を克服して信仰の成長に結びつけることがもっとも大事なことなのです。

 ここで、私達が確認しなければならないことを整理しておきましょう。

i)神の助けは大変近くにあるということ。神はずっとあなたの近くにいて守ってくださっています。

ii)万軍の主が私達とともにあるということ。近くにいて守ってくださる方は、全知全能、完全無敵、全てを創造し、また治めておられる方です。この方の許しなく、世の中のどんなことも起こることはないのです。

iii)契約の神様が我々につていると言うこと。私達と神様の間には「契約」があります。神は真実な方ですから、この契約を履行しないと言うことは絶対にありません。守ると言ったら、必ず守ってくださるのです。クリスチャンが大変な試練にあっても耐えられるのは、こういう信頼があるからなのです。

 先日東京には雪が降り、交通の混乱を始め、多くの方が大変不自由されました。でもみなさん、私達は実は都会に住んではいても、わずか10cm雪が積もれば身動きがとれなくなってしまう、神の管理下にある自然の中にいるのです。このような絶対者である神の御業を目にして、我々は神を信じないもののように、自分の無力さを感じてしぼんでしまったり、より傲慢になったりするのでしょうか?キリスト教では、そのような神の臨在を感じたとき、それを大きな恵みと感じて、感謝して歩んでいくことができるのです。


今年、大きな試練や変化があるかも知れません。しかし、そのような試練にあっても鎮まって神様がその手の内でなされることを見守っていきましょう。どこに導かれても、万軍の主は私達とともにあり、契約通り私達を見守っていてくださいます。


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