礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年2月1日

「さあ再建に取りかかろう」

井川 正一郎 牧師

ネヘミヤ記 2章11〜20節

中心聖句

「『...さあ、エルサレムの城壁を立て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう。』

そして、私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また、王が私に話したことばを、彼らに告げた。そこで彼らは、『さあ、再建に取りかかろう。』と言って、この良い仕事に着手した。」

17〜18節

教訓:問題の把握と解決


導入

今朝取り上げる箇所は、バビロンの補囚の後、エルサレムに帰ったイスラエルの民たちが城壁を立て直し始めたことにまつわる記事です。イスラエル民族は、その不信仰と罪の故に、王国が北のイスラエル王国と、南のユダ王国に分断し、さらにそれぞれアッシリアとバビロンによって滅ぼされました。ユダ王国の民たちは、バビロンに補囚として連れていかれ、そこで仕えさせられましたが、やがて神の約束通り、奇跡的にエルサレムへの帰還が許されることになります。

バビロンからエルサレムへの帰還は、三段階に分けて行われました。まず預言者ゼルバベルによって、次いでエズラ、そしてこの場所で取り上げられているネヘミヤによって、順次帰還がなされました。ネヘミヤによる帰還はBC444年に行われましたが、この頃は旧約聖書の最後の書を書いた予言者マラキと同時代であります。この後約400年に渡って中間時代という時代を経て、イエスの生誕と新約聖書の時代を迎えることになります。(王の年譜参照

長い間の捕囚の間に、エルサレムは荒廃し、神殿や城壁も荒れ果てていました。イスラエルの民が、補囚にあった最大の原因は、その罪と不信仰でありました。民はそのことを捕囚の間に心底知らされていたので、エルサレムに帰るとまず第一にその信仰の象徴である神殿の補修を開始しました。ただし、冒頭の箇所に書かれている「城壁」については、やるべきこととわかっていながら後回しになっていたようです。そして、それが故に周囲の国からそしりを受けていたと書かれているように、これは一つの大きな問題に発展しかかっていました。そんな時、預言者ネヘミヤによって、城壁の修理が促されたのです。

今年、教会は50周年を迎えて様々な取り組みを行います。そして、それ以上に、それらの営みを通じて、教会員一人一人の信仰と心の刷新がなされることが期待されています。さらに、これらの一人一人の刷新から、教会全体が新しい方向に歩みだし、そしてある種「再建」がなされていくことを願っております。

今朝は、再建の前に具体的に何を心に留めたらよいかと言う点について、冒頭の箇所を4つの角度から取り上げ、メッセージとして取り次がせてさせていただきたいと思います。


1)問題を正しく見極めよう。

「再建」の前に心に留めておかなければならないことのまず第一番目のポイントは、問題を正しく認識することです。ネヘミヤは、冒頭の箇所でその時点におけるイスラエル民族の一番の問題点が「城壁の荒廃」であることを認識していました。特にその問題が、周囲の国からの「そしり」の対象になっており、自分たちだけの間での問題でなくなっていることに注目しました。これは、一言で言うと「証詞(あかし)ができていない状態」あるいは、「神の栄光が示されていない状態」にあったと言うことができます。

「問題」を見極めると言った場合、その問題の二つの種類があることを忘れては成りません。まずは、通常良く目に留まる表面的な問題であり、次いでその表面的な問題の奥底に潜む根元的な問題であります。

ネヘミヤのやろうとしたことは、一見すると「城壁」を補修するという表面的な問題解決のように見えますが、実はその後ろに潜んでいるもっと本質的な問題解決を図ろうとしているのです。それは、城壁が崩れたままにされていたのが、単に順番がまだ回ってきていないからではなく、イスラエルの民にとってそれをやることが億劫になっていたからなのです。だからこそ、周囲の国から「そしり」の対象となっていたのです。

このような「城壁」は私達の問題の象徴と捉えることができます。それは、家族内や職場における人間関係や、各個人の信仰の問題であるかも知れません。

よく「私には悩みがない」とか「私には特段何の問題もない」と言う人がいます。ところが、問題のない人間などと言う者は存在しないのです。こういう人は、単純にその問題に気付いていないのか、或いは気が付かない振りをしているのです。

救われたとか、洗礼を受けたとか、きよめられた、とかいうことを経験していても、マンネリ化した生活の中で、その状態から段々とずれていってしまうことが、ままあります。こういうときにもう一度出発点に戻って、きちんとした姿に修正する、これが「再建」と言うことの意味なのです。

そのためには、まず何が自分にとっての問題であるかはっきりさせなければなりません。バビロンの捕囚の原因は、汚れた罪の問題でした。これは内側からの修正ではもうどうしようもないほどひどくなってしまっていたので、神の直接的介入を招き、そして問題のある人間の分別のために、「補囚」と言う非常措置がとられてしまったのです。内部で修正が効くうちにその問題を正しく認識し、そしてその問題を正すことが肝心です。


2)神の導きを見極め、仰ぐべし

問題が何であるかわかったら、次はその問題を解決する番です。しかし、その問題をどうやって解決したらよいのでしょう。聖書は、問題解決は神の導きに従うべきであると教えています。つまり、自分勝手な方法を編み出して解決するのではなく、神の意に添うような形で解決すべきであると説いているのです。

これは、目の前の問題をその場しのぎで解決するのではなく、根本から修正せよと言っているようなものです。そして、ここは大事な点ですが、問題解決したらその後どうして行くべきなのか、と言う将来の観点を込みで考えていくことが必要です。つまり、問題解決においてビジョンをもて、ということです。

こういう事ができる人はそう多くはないものです。しかし、「点の神ご自身が私達を成功させて下さる」と言うことば通り、神の声に聴き従っていれば、このようなことが自ずとできるようになるのです。

ネヘミヤは、実に多くの局面で短い祈りをした人物でした。つまり、常に神の声に聴き従う姿勢ができていたのです。近視眼的になることなく、神の御声に従って先見性のある解決をさせていただきましょう。


3)神が私達の心を動かすことを知る

問題解決の働きに際して、神の意に適う仕事をするように、私達の心に神は働きかけて下さいます。12節では「私の神が私の心を動かして」、とあります。やるべき仕事があるとき、神はその仕事をすべき人の心の扉を必ずノックし、その人に志を与えられます。

神は常にその意に適う「良い仕事」に着手する人間を捜しておられ、その人の心に促しをお与えになります。ピリピ2章13節には、「志を立てさせ、事を行わせて下さる」神について書かれています。

私のような者に何が出来るとおっしゃる方もいるでしょう。でもそういうかたに知っておいてもらいたいことがあります。人間というのは、その使命が終わりを告げたとき、命を取られます。言い換えれば、私達が「生きている」とういことは、何らかの使命があるのに果たされていないのです。つまり、なすべき使命というものは、誰でも必ず持っているのです。もしそれを放棄するようであれば、命も放棄するようなものです。

充実した人生を送る人間というものは、ある時「私はこのためにこの世に生を受けたのだ」と思わされる一瞬があります。こういう人々によって、教会が、家族が、国が、そして歴史が支えられてきたのです。評論家のように、また劇場の観客のように傍観者となって無責任な批判ばかりしている人は、往々にして何の働きもしていないのです。どうかみなさん一人一人が、その使命を知って、新たにそれを全うする人生を始めていただきたいと願っています。


4)神が完成させて下さることを知れ

さて、問題を知り、神の示す道に従い、神の促しに応じて進んだ者には何が与えられるのでしょうか?神意に適う「良き仕事」は、始めた時点で成功と完成が約束されています。それが「神の業」というものなのです。

ネヘミヤ記では、城壁の修復が実に52日間という異例の短期間で完了したことが記されています。6章15〜16節では、周囲の敵国がそれを知って大変恐れたことが書かれています。敵は、その技が人間業ではないことを良く知っていたからです。こういう時、「神の栄光が示された」というのです。すなわち、なしたことが人間業でない、誰が見ても神業であるというレベルの仕事が達成されるわけです。

ピリピ1章6節に「完成させて下さる」神についての記述があります。この「完成」と言うことばの原義は、「最後に一筆加えて、完成する」と言う意味です。このように神のなせる技は、最後の仕上げをして下さるものです。しかも、その一仕上げによって、完成した者のレベルは人間業でないレベルに到達するのです。こういう恵みを、是非今年私達のものとさせていただきましょう。


最後に、建て直しに際して実生活へ適用すべきポイントをまとめてみましょう。

1)自分自身の問題を正しく見つめましょう。

2)神の導きを聖言を通して頂き、それに従っていきましょう。

3)お互いに「しゃんと」しましょう。


 written on 980201 by K. Ohta