礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年2月8日

「わたしが、あなたがたを遣わすのは」

蔦田 直毅 牧師

マタイの福音書 10章1〜23節

中心聖句

「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものなのです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。

また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。

しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」

16,18,22節

教訓:私達に与えられた使命とは?


導入

昨今は、キリスト教の教えを広めることが難しい時代だと言われています。確かにいろいろな状況を考えますと、以前のようにキリスト教の教えを伝える手段は限られてきています。しかし、わたしは現状はそれほど劣悪なものではないのではないかと思っています。実際、聖書に書かれている初代キリスト教会の時代においても、またその後の世界的にキリスト教が広がっていった時期においても、状況にさほどの差はないのではないかと思われます。つまり、キリスト教の教え(福音)が広がっていった時期を見てみますと、順風満帆な時期と言うよりもむしろ、いろいろな迫害が加えられたり、様々な制限の中で逆境の状態にあった時期の方が、非常にすばらしい結果が得られているのです。

今日は、マタイ伝の冒頭の箇所から、このような「困難」な時代にあって、私達がキリスト教の教えをどの様に伝えて行くべきかについて、メッセージを取り次がせていただきたいと思います。

冒頭の箇所は、いわゆる「12使徒」の選定に関したくだりです。ここでは、彼らが召された理由が端的に記されています。それは天国の到来が近づきつつあることを、諸々の人々に伝えていくことでした。今日を生きる私達も、キリストに連なるものとして12使徒と同じように福音を伝えていくことが期待されています。今日はこの点について、三つの角度から捉えてみましょう。


1)イエスが私たちをこの世に遣わした様子

冒頭の聖句の中で、イエスは我々を世に遣わすと言うことは、「羊を狼の中に送り出すようなもの」である、と語っておられます。この「世」と言うことばには、悪に支配された神に敵対する者の世界と言う意味と、神の愛の対象である人間の集合と言う二つの意味があります。私たちは今信仰の自由という恵まれた環境にあり、昔のように信仰の故に生命に関わるほどの迫害を受けると言うことはありません。しかし、現在でもある国々では今だに大変な迫害が続けられています。恵まれた現在の環境にあっても、この「世」と言うものにはそのような危険性が潜んでいることは知っておかなければなりません。

「世」と言うものは、そのように危険で大変な存在ですが、神は何も私たちだけをそのような中に送り込んで、高みの見物をされているわけではありません。その最愛の一人子イエスを、この世の人々を愛すが故にまずすすんで送り込まれ、そして罪もない身を十字架にかけることで、我々の罪をあがなわれたのです。

冒頭の箇所で神は、そのような危険な「世」の中で、私たちがとるべき態度を示されています。それは「蛇のように聡く、羊のように素直であれ」と言うものです。蛇のように賢くと言うのは、何もずるがしこくあれと言うのではありません。これは、頭を用いて注意深く、犯さなくても良い罪の中にはまり込まないようにすると言うことです。鳩のように率直にとは、無害でありなさいと言うことです。つまり、こざかしく自分の考えで「世」に対して戦いを挑むなということです。


2)私たちは何故イエスによってこの世に遣わされたのか?

冒頭の聖句では、使徒たちがやがてローマ総督や裁判所に連れて行かれると言うことが書かれています。この時点での弟子たちは、まだまだ漁師から使徒になったばかりのようなものたちばかりで、このイエスの言葉は何の事だかわからなかったはずです。しかし、イエスはこの時点で、そういう弟子たちが最後には当時最高レベルの曲面で福音を広めていくことを預言していたのです。

私たちも今は見当も付かないような曲面で、福音のあかしをする機会があるかも知れません。でも、そんなときに何を言ったらよいのかわからないと言う方もおられましょう。そういう方もご心配することはありません。語る際に、語るべき言葉は神が用意して下さると聖書には書かれています。また、そのようなときに、それまでに蓄えておいた聖書の言葉が非常に重要な意味を持つようになります。

また、そのような機会は実は現在でも転がっているのです。たとえばインマヌエルの国外の宣教地では、現地の人以外にも、その地に派遣されている日本人に対する福音宣教においても重要な意味を持っています。また、インターネットなどを通じて世界の様々な方が私たちの教会のメッセージに触れていることを忘れては成りません。こういうグローバルな時代において、いつどこでその使命を果たす機会が与えられるかわからないのです。


3)遣わされた者の目指すゴールとは?

こういう大変な「世」に遣わされた私たちの望みは何でしょうか?それは、わたしたちが救われていること、そして耐え忍んだ後には天国に入れると言うことに他なりません。ここで注意しなければならないことは、福音を伝えたから救われるのではなく、救われた恵みに与っているからこそ、その喜びを他の人にも知らせると言うことが本来の働きであると言うことです。「良いものを知っていながらそれを他の人に黙っている」というのはマズイ事だとおわかりになると思います。

こういう姿勢で、福音を伝えることが出来ますと、それは大きな喜びを伴うものです。そして、その喜びはどの様な困難なことがあっても、苦に思われないような程のものなのです。だからこそ、使徒たちをはじめとした多くの先人たちが、大変な迫害の中にあっても喜びを持ってキリストの教えを伝えていくことが出来たのです。


最後になりましたが、今は確かに困難な時代であるかも知れません。しかし、そのような困難な時代に臆することなく、しっかりと私たちに与えられた使命として、それぞれの持ち場・立場に置いて、キリストの輝きをあかししていきましょう。

 written on 980211  by K. Ohta