礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年2月15日

「アドナイ・イルエ

主が備えて下さる」

井川 正一郎 牧師

創世記 22章1〜18節

中心聖句

「神は仰せられた。『あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地へ行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。』。。。

 イサクは、父アブラハムに話しかけて言った。『お父さん。』すると彼は、『なんだ、イサク。』と答えた。イサクは尋ねた。『火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。』

 アブラハムは答えた。『イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えて下さるのだ。』こうして二人はいっしょに歩き始めた。」

2,7〜8節

教訓:本当のリバイバルを


導入

今年ほど、「リバイバル」というものを考えさせられる年はありません。リバイバルという言葉は、キリスト教では「信仰の回復・刷新」と言うことを指します。これまで「リバイバル」という言葉は、あまり前面で用いられることはありませんでした。それは、かつてあったようなリバイバル運動に伴う一過的な熱狂や過熱よりも、日々継続的な個人個人の信仰的成長の方が重要であるという考えに基づいています。しかし、こういう表面的な意味でのリバイバルとは異なる、本来の意味でのリバイバルというものが、今日の私たち一人一人、私たちの教会、ひいてはキリスト教界全体にとって重要性を増しているのではないかと思います。

本当の意味での「リバイバル」は、一言で言ってしまえば「信仰の回復」であり、「しっかりする」とか「向上する」とか言うものです。しかし、さらに細かく見てみますと、二つの意味が込められています。

人間長い年月の間に信仰がマンネリ化し、いい加減になりがちです。まず第一の意味合いは、こういう生半可な状態にある信仰を改めることです。

次のポイントは、人間がその生涯・生活を通じて何回か節目を必要としており、その節目ごとに神によってより高い位置へ引き上げられる必要があることです。

これらのことを成し遂げたとき、本当の「リバイバル」が来た、といえるのです。そしてそのときこそ、他の人にも本当の意味でキリスト教の教えを伝えることが出来るのです。

前回の私のメッセージでは、「信仰の再建」について取り上げさせていただきました。今日のメッセージも、このテーマの延長線上にあるものです。

冒頭の箇所は、神の人アブラハムが、長年の祈りの末やっと得たひとり子イサクを、「丸焼きにしていけにえに捧げよ」と言う神の命令を受け、その通りしようとした記事について書かれています。実際には、イサクは丸焼きにされずにすみました。それは、アブラハムがイサクに手をかけようとした直前に、神ご自身がその場所にいけにえ用の雄羊を用意されたからです。

今日はこの箇所から、神がどの様なお方であられ、また主が備えて下さるとはどの様なことなのかについて、三つの点から語らせていただきたいと思います。


1)神は人間の信仰を訓練するお方

22章の1節で神は、アブラハムに試練をお与えになりました。神は、良くこのように我々の信仰を練り上げ、鍛錬されるために、節目節目に試練を与えられます。

アブラハムは、実に神を愛し、また真の信仰の持ち主でした。神もまた、アブラハムを格別に愛されました。しかし、アブラハムの信仰がその域に達したのは、このイサクのいけにえの一件の箇所だったのではないでしょうか。それまでのアブラハムは確かに深い信仰の持ち主でしたが、子供の件については神への全幅の信頼を持っていなかったようです。つまりその信仰は、まだ「玉石混淆」の状態であり、人間的な打算が働いていたといえます。

実際、神はアブラハムにその子孫に地を継がせるという約束をお与えになりましたが、彼とその妻サライは80才ほどであったので、アブラハムははしためとのあいだにイシュマエルという男の子をもうけました。そして、神がサライに子を授けると約束をしても、半信半疑であったのです。しかし、神は約束通り90才にもなっていたサラにひとりの男の子、イサクを与えられたのです。

冒頭の箇所におけるアブラハムの心中は、特に書かれていませんが、これだけの思いをして得たイサクを、丸焼きにして差し出せというのですから、かなり苦しみ、悩んだことは想像に難くありません。

私たちにとっても、この「アブラハムのイサク」に当てはまるようなことがあるのではないでしょうか。神はその人にとってもっとも大切にしているものを捧げよ、とおっしゃっておられます。これに従うと言うことは、並大抵のことではありません。このような信仰を得ると言うことは、「主は与え、主はとられる」と言うことをはっきり認識した信仰を持つと言うことです。言い換えますと、「主に全く信頼し、主に委ねきる信仰」であるといえます。残るものは主以外にいないと言う信仰なのです。

これに対するのが、なんだかんだ言っても、自分がまだ幅を利かせている「自分中心」の信仰です。何かあったとき、まず神に委ねるのではなく、人間の浅はかな打算や思いで動いてしまうレベルの信仰です。こういう信仰は、前者の神中心の信仰に改めていく必要があります。

このような神第一の信仰を持ちますと、「イサクは捧げなければならないが、子孫は祝福する」と言う一見すると矛盾した神の約束を、アブラハムのように受け入れることが出来るようになるのです。

私たちの信仰の目標は、このような「神第一の信仰」を持つと言うことです。その結果は神による祝福です。アブラハムは、イサクを捧げる決心をしたことで、最終的はイサクを失うことなく、子孫の繁栄を手にすることが出来ました。


2)神ご自身が備えて下さる。

14節では、アブラハムがイサクを捧げた場所を「アドナイ・イルエ」と名付けたと書いてあります。「アドナイ・イルエ」とは「主が備えて下さる」と言う意味です。このように、神がお与えになった試練の解決策は、神ご自身が備えていて下さるのです。

ここで神が備えられた解決策とは、「一頭の雄羊」でした。この雄羊は、言うまでもなく「キリスト・イエスの十字架」の雛形でもあります。たしかに、イエスの十字架は全てのことの解決策であり、万能な備えであるといえます。

しかし、ここで強調しておきたいこはそういうことではなく、神がその問題課題に対して、具体的に回答をお与えになると言うことです。時に応じて、最適な答えを用意されている、これが今日強調したい「神が備えて下さる」ということなのです。


3)順序を大切にされる神

冒頭の箇所でもう一つ注意すべきポイントがあります。それは、神の備えが示されたのが、あくまでもアブラハムが神の仰せに従った後だったと言うことです。これは、「まず神の国とその義を求めなさい。」と言う言葉につながります。神の祝福の備えは、その後でないと決して目にすることは出来ないのです。

人間最初にご褒美を求めたくなる気はよくわかりますが、神の恵みは順序というものが非常に重要なのです。神の備えが与えられるためには、以下のような法則があります。

試練−> 信頼・信仰 −> 解決の備え

ポイントは順序です。例えば、

神の国とその義を求めると、その他のことは全てが与えられ、イエスを信じれば、家族も救われ、イサクを捧げれば、備えが与えられるのです。このように神の促しに、まずはじめに幼子のように従っていけるか、そこがポイントになっていることを良く理解して下さい。


実際の生活への適用

1)自分で先回りしないように。

これは自分勝手な考えで、順番を変えるなと言うことです。もっと言うと、神の指示を待たずに、小手先の細工で物事を行うなと言うことです。

私は、これに関して「おいあくま」と言う言葉を暗期用に用意しています。「お」は「おこるな」、「い」は「いばるな」、「あ」は「あせるな」、「く」は「くさるな」、「ま」は「まけるな」と言う意味です。これ以外に3つの「い」と言うのもあります。「いそぐな」「いばるな」「いじけるな」というものです。

2)今必要な解決は目の前にあることに気付け。

根本的解決としてのイエスの十字架だけでなく、具体的な解決策も目前に用意されていることを知りましょう。13章には、「アブラハムが目を上げると、...そこに雄羊がいた。」とあります。このように、神の用意された備えとは目の前にあるものなのです。さあ、目を上げてみて下さい。目を伏せていては、神の恵みも見ることが出来ません。

 written on 980215  by K. Ohta