礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年2月22日

「石投げと一つの石で」

蔦田 直毅 牧師

サムエル記第一 17章31〜54節

中心聖句

50 こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。

50節

教訓:


導入

今日取り上げる箇所は、有名なダビデとゴリアテの対決の場面です。ここは、言い方が適当がどうかわかりませんが、「聖書の中の桃太郎」ともいえる場所だと言われています。この場面は、いわゆる「神の戦い」「主の戦い」と言われている典型的な例です。「主の戦い」と言いますのは、神の意志と意向に添った営みのことを指します。この箇所には、私たちが「主の戦いをする」時に大切な教訓が多く含まれています。

サムエル記に書かれていることは、一見すると桃太郎のような伝説に見えるかも知れません。しかし、サムエル記は預言者サムエルによる王室の公式記録であり、そこに書かれていることは事実です。当時の戦争は、現代の戦争のようにミサイルもなければ、戦闘機もありません。かなりのんびりとしたものであったようです。昔の日本の合戦のようにお互いに名乗りを上げ、それからおもむろに戦い始めると言うようなものであったようです。この場面でも、巨人ゴリヤテが名乗りを上げ、自分と戦う勇気を持ったものを引き出そうとしていました。彼はそのとき、イスラエルの陣に自分と戦う勇気を持った人間が一人もいないことを知ると、イスラエル軍をなじり始めました。

しかし、このときイスラエル軍にいる兄たちに食料の差し入れをしに来た少年ダビデがいたのです。彼は、ゴリヤテになじられるままになっていたイスラエル軍を不思議に思い、「何故なじられたままにしているのか?」「私が行って戦いましょう」とゴリアテに戦いを挑むことを望んだのです。

しかも彼は、戦い始める際にせめてもの助けにと差し出された鎧甲を拒み、いつも使っている石投げと滑らかな石を5つもって、ゴリヤテの前に進み出たのです。かれは「万軍の主の名によって」ゴリヤテに戦いを挑み、石投げの一撃でゴリヤテの額を打ち、彼を打ち殺しました。これは、全く予想外の大殊勲で、これを契機にイスラエル軍はペリシテの軍隊をうち破ることが出来たのです。

今日はこの箇所から、「主の戦い」における勝利の秘訣についてお話しさせていただきたいと思います。


1)勇気ある第一歩を踏み出すこと

少年ダビデが目にしたものは、ペリシテ人を前に怖じけづき、縮み上がっているイスラエルの勇者たちと、それをなじり倒しているゴリヤテでした。

「主の戦い」の勝利という者の前には、往々にして、このような惨めな挫折の状態があるものです。先週オリンピックのジャンプの団体で金メダルをとった原田選手も、勝利の前に大変な目にあっていました。彼がリレハンメル・オリンピックの団体競技で失速して、日本が金メダルを取り損なったとき、彼の家には脅迫のような電話がたくさんあったと言います。このように、悪いときにはその人の気持ちも考えずに、たたみかけるように悪口雑言を言う人がいるものです。しかし、ひとたびその人が勝者となると、そう人は黙ってしまうのです。

ゴリヤテになじられどうしだったイスラエルの陣には、神の恵みによって油注がれたダビデが送り込まれました。そして、誰も予想していなかった勝利が得られたのです。この勝利には一つのポイントがあります。それは、勝利というのは順調に手にしたときは、あまり教訓にならないと言うことです。イスラエルの人間は一回地獄を見たからこそ、神のなせる恵みのありがたさと、その教訓を身につけることが出来たのです。人間は度々このような試練に会いますが、それは神の偉大さを知る良い機会と捉えるべきなのです。


2)信仰を持った一人の人間が始めること

ゴリヤテを破ったイスラエル軍の勝利は、結局の所、ダビデという一人の信仰者の勇気ある一歩が非常に重要でした。

ハドソン・テーラーの宣教の働きは、現在では非常に有名なものですが、彼がその活動を始めたときは、どの宣教団体も彼の働きをサポートは全くありませんでした。そのために、彼は一人でアジアの地に宣教に向かい、極度の貧困、愛する娘の死など、大変な苦労をしなければなりませんでした。しかし、その後しばらくして、この彼の勇気ある一歩が、実に大きなアジアの宣教運動に結びついてくことになったのです。

大男ゴリヤテは身長3メートルとも言われていますが、そのときのイスラエルの陣を仕切っていた王サウルもかなりの大男であったようです。しかし、彼はゴリヤテの前にすっかり怖じ気づき、全く戦意を喪失していました。本来ゴリヤテに立ち向かうべきものが怖じけずいていたために、神の霊がサウルから離れ、その後神の助けを得ることすら出来なくなってしまいました(16章14節)。


3)神に対する完全な信頼

47節では、ダビデが「この戦いは主の戦いだ」と宣言しています。戦いに一歩踏み出すのは、それ自身勇気のいることです。しかし、踏み出しただけでは、まだ何にもならないのです。よく、一歩踏み出したものの、何となく不安になって、「本当に大丈夫なのかしら」と周りを見回してしまうようなことがあります。しかし、神の戦いに勝利するためには、このような中途半端な気持ちは禁物です。つまり、戦い始めるときに、ダビデのように「これは主の戦いだ」と心から思えるかどうかが重要なのです。これとは逆に、本当は神の戦いでも何でもない自分勝手な戦いをしているのに、「これは神の戦いだ」と自分で言い聞かせているような状況はだめなのです。

「主の戦い」というのは、このようにあくまでも、主なる神ご自身がイニシアチブをとって行われるものなのです。このとき、戦いに挑む私たちにも、「これは確実に神の戦いである」との明確な確信が得られます。まず自分自身を完全になげうって、全てを神の御腕に任せ、信頼しきるダビデの信仰が勝利の秘訣なのです。

人間は、手品やトリックに何故引っかかるのでしょう。その大きな原因は、人間が「物事はこうなるはずだ」と言う先入観を持っているからだそうです。このように、自分勝手な思いこみというのは、大変危険な要素をはらんでいます。例えば、「私にとって主の戦いとは、○×大学に入学することである」とか、「どこどこの会社に就職すること」であるとか、「こういう人間になることである」と思い込んでいるのは、必ずしも本当の「主の戦い」になっていないことがあるのです。「主の戦い」というのは、このような自分本位のものではなく、本当に「神の意図した自分」になると言うことなのです。

こういいますと、「なんだかそれでは自分というものがないではないか」、と思われる方もあるでしょうが、このような姿勢は決して投げやりなものでもなく、また怠慢な姿勢でもありません。いやむしろ、かなり積極的な生き方なのです。このような生き方は、「きよめ」と言う言葉で表されるものです。「きよめ」に関するお話の中で、よく「神ご自身を自分の心の王座につけなさい」と言うような言い方がされることがあります。これは、神が心に入っているのだから何もしなくていい、と言う消極的なものでは決してなく、むしろ心を開いて神の御心に従っていこうとする積極的な生き方なのです。

冒頭の箇所におけるダビデの例をみてみましょう。彼は「主の戦いである」と言ったからと行って、自分では何もしなかったわけでもなく、また思慮もなくゴリヤテに向かっていったわけではありません。彼は、槍や刀ではなく、自分の使い慣れた武器である石投げをとり、投げるのに適した滑らかな石5つをとりました。そして、動きを緩慢にさせる鎧甲を着ず、身軽な形でゴリヤテに立ち向かい、相手の急所である額を一撃したのです。

神は私たち一人一人にこのような石投げを用意されています。それは私たちが神の戦をするに当たって、もっとも私たちに適した武器であると言うことが出来ます。自分は一回の羊飼いの少年だと言って戦いを拒むのでなく、この神の与えたもう武器を見つけてたたきに挑んでいきましょう。


このような確信は、一体どの様にしたら獲得できるのでしょうか?それはまず「神は私を愛して下さっている」と言うことを心から納得することです。このような姿勢で獲得した自信は、傲慢になることは決してありません。

また、他人と比較して物事を行うのではなく、あくまでも自分と神様の関係に目を向けましょう。信仰生活というのは、スケート競技で言えば「スピードスケート(絶対的な時間のみで比較する)」のようなもので、「ショートトラック(他人との相対的順位で決まる)」のようなものではないのです。

主の戦いに関してもう一つ付け加えておきたいことは、神はその人一人一人のタレント〔天賦の才能・能力)に応じた働きを要求されていると言うことです。新約聖書に出て来ますタラントを主人から預かった三人の下部に関する話はこのようなことを意味しているのです。この話は一見すると、与えられたタラントが違っていて、不公平に見えるかも知れませんが、神は人間にそれぞれの才能をお与えになり、それに応じた働きを求めておられる、と言うことをイエスはおっしゃりたかったのです。


ダビデの戦いは、あっと言う間の一撃で決まってしまいました。「主の戦い」というのは始めてしまえば意外と最初の一撃で決まってしまうことが多いのです。

この一年、この教会に神がお与えになった約束は「勝利」です。しかし、その前に条件として、私たちが本当の意味で「主の戦い」を行い、また勝利の栄光を神に期すことが必要なのです。周りと比較することなく、神に完全に信頼し、それぞれ与えられた資質を良く生かして、神のご期待に応えられる一年とさせていただきましょう。

「主の戦い」の勝利は、あなたが持っている「石」と「石うち」で成し遂げることが出来るのです。

 written on 980226 by K. Ohta