礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年3月1日

「鋭い、新しい両刃の打穀機とする」

井川 正一郎 牧師

イザヤ書 41章8〜20節

中心聖句

14 恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。私はあなたを助ける。−主の御告げ−あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。

15 見よ。私はあなたを鋭い、新しい両刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。

50節

教訓:変貌の御業とは?


導入

人間は、絶えず変貌していきたいと願う存在です。絶えず向上し、ちがうものになりたいと願うことが、人間の奥深い欲求として存在します。このような願望は、老若男女を問いません。また、何の変化もなくそのままでいることは、一種の退化現象をもたらすものです。すなわち、絶えず向上し、変化し続ける事が人間には求められてもいるのです。

クリスチャンにとっては、イエス・キリストに似せられていくという過程が、絶えず進められていくことが求められております。冒頭の、

私はあなたを鋭い、新しい両刃の打穀機とする。」

と言う言葉は、この「変貌・変化」を意味する言葉です。

今年は、教会創立50周年という節目であり、私たち一人一人の「信仰の刷新・建て直し」という「変化」を求められている年でもあります。また、3月という時期に人生の節目を迎えられている方もおられましょう。

今日、冒頭の神の約束を元に、私たちも「変貌」させていただきたいと思っております。まず、何故そのような信仰な刷新・変貌を私たちは必要としているのか、ということについて冒頭箇所の文脈の中から、学んでみたいと思います。


このイザヤ書の66章全体は、前半の1〜39章と、後半の40〜66章の大きく二つに分けることが出来ます。前半は、神の民の罪に対する神の審判、神の裁きがテーマとなっております。後半は、神様の回復の約束を記しており、今日取り上げる41章もこの部分に属するものです。

41章には、「神による回復」とはどの様なものかが端的に書かれています。2節には、「誰か一人のものを東からおこし...」とあります。これはクロス王と言われていますが、クロス王によるバビロン補囚からの解放があり、神の民イスラエルの民が神の臨在のもと見事に神の民として蘇えり、変貌していくことが記されております。

ここで「助ける」という言葉が3回出て参ります。10節、13、14節に出て来ます。それぞれ意味が異なります。10節は、「選び見捨てない」と言う意味、13節は、「勝利を持って敵をうち破る」と言う助け、14節は、「変貌すると言う助け」を意味します。

バビロン補囚にあるイスラエルの民は、全く見込みのないような状態であったのですが、そのような人間にも神が回復と刷新の恵みを用意されている事を捉えさせていただきたいと思います。

なぜ「変貌」が必要なのか?その理由を今日は二つの面から見て参りたいと思います。


1)今こそ変貌しなければならないから

第一の理由は、今こそ変貌しなければならないからです。冒頭の箇所では、神の民という人々が「虫けら」と呼ばれていました。だからこそ変貌しなければならなかったのです。ここで言う「虫けら」とは、「取るに足らない全く小さい乏しい者たちである」と言う意味と、「虫のように小さく、無が止められていないような、全くあかしが立たない軽蔑され、あざけられるような存在」と言う二つの意味があります。

私たちは、謙遜を込めて「小さき者(第一コリント)」と呼ばれる者なのですが、41章の意味は「取るに足らないからこそ、そのままではなく、変貌しなければならない」と言うことを意味してます。確かに謙遜は大切でしょうが、だからといって「私は小さい者ですから」と進歩をあきらめてはいけないのです。私たちは「虫」の状態から変わらなければならないのです。

「人と比べるな」と言われても比べてしまい、その比較から「私なんか」という自己卑下や自己憐憫になってしまいがちなのが人間です。しかしそのような状態から抜け出さねばならないのです。1タラントを与えられた者は、二倍、三倍に増やしていく、つまり更に大きなものに変貌することが期待されているのです。冒頭の箇所でも、「虫けらは」変貌した後、丘をも崩すほどのものに変貌させられていくのです。

取るに足らない乏しい器という謙遜を得ること以外に、そこから更に成長し、変貌させられて行くこと、これが冒頭の言葉に関する第一の意味なのです。

もう一つの意味は、「全くちっぽけで、周りからあざけられる」と言うものでした。神の民はこの時実に、「虫けらのヤコブよ」と呼ばれなければならないような状態でした。つまり、何度神が救いの手を出しても、その不信仰を改めず、むしろ神を攻撃したり、神など存在しないなどというような最低な状態に陥っていたのです。

何故イザヤはここで「虫けら」と言う言葉を用いたのでしょう。良く知っている人に尋ねますと、「虫」と言うものは非常に「マイペース」であり、「プライドが高い」そうです。ここでいう「マイペース」は、余りよくない意味です。それは、「人の話は聞かない」「自分の考えをてこでも直さない」「自分を常に正当化し、相手のせいにする」と言うような意味があります。また、小さいが故の「プライド」があり、「コンプレックス」があるのです。こういう点が、イスラエル人の神に対する態度と重ねられているのです。このような人間は、他の人から、「あれが神の民か」とあざけられているのです。

今日の神の約束は、このような状態から脱却させていただけると言うものです。


2)刷新・変貌が可能だから

これは別な言葉で言うと、「刷新・変貌」は神の御旨である、と言うことです。神の御旨は、ある意味で「命令(〜なければならない)」でありますが、また別の意味では「約束(〜できる)」でもあるわけです。15節には「打穀機」と「する」と書かれています。つまり、確実に変貌させるという宣言になっているのです。

神は何故ここで「打穀機」と言う具体的なものに変貌させると言う約束をなされたのでしょう。「打穀機」とは、日本で言う「脱穀機」のことです。ここで言う機械は、「麦を収穫した後、穂から麦の粒を取る機械」のことなのです。具体的には大きな石に、歯を何本も取り付けたものです。この歯が古くなると、鋭いものに取り替えるわけです。

「打穀機」とはこのように、生きる糧の穀物を得るために用いるものですから、「自他共に生かすもの」を意味しています。二つ目の意味は、食べられる状態に変える機械ですから、「目的に適う器に変貌させる」と言う意味。最後の意味は「打ち砕くもの」ですから、「敵をうち破る勝利」を意味しています。今日の神様の約束は、このようなものに変えて下さるというものなのです。

15節に「山々を踏み砕く」と言うようなことが書かれています。この「山々」は、私たちの目の前に立ちはだかる難問・困難なのであります。往々にして、「虫けら」のような気分になりがちなのが人間というものですが、今日のお言葉はこのような問題をも解決して下さるという約束なのです。その解決策は一通りではありません。むしろ、人それぞれ全く異なったものでしょう。しかし問題解決の秘訣は一つであり、それは「両刃の打穀機」と言うものに変貌することなのです。

どうしてそんなことが出来るのでしょうか。何故神はこのような虫けらに目を留めて下さるのでしょうか。その理由は「神だから」なのです。9節では神は「虫けらのヤコブ」を「私の友」と呼んでおられます。神は、どんな最低状態にある人にもこのような「友」でいてくださるのです。しかも、その解決により「大山を動かす」ような「スゴイ器」に変えて下さるのです。「こんな事あり得るのでしょうか?」と言うようなことがあり得るのです。

この場所はイスラエルの裁判所を模しているとも言われています。被告はイスラエルの民、原告はその民をなじる異邦人たち、裁判官は神様、と言う形です。そして裁判で神は、イスラエルの民の勝利を宣言されているのです。

先週日本の宣教のために労された、久芳エドナ先生が天に召されました。この先生と出会った方はみなさん、久芳先生は「私」をもっとも愛されたと思っておりました。何よりすばらしいことは、この先生と出会った方の多くが、本当に大きな変貌を遂げたということです。しかし、何故そこまで私を愛されたのかというのは「amazing grace」としか言うしかないのです。

このような神の御愛により、数百倍・数千倍持つ良いものとさせて頂く事が、今日神様から頂いたメッセージなのです。


実生活への適用

1)神の「ろくろ」の上に自らを置く

神様の御旨に委ねきると言ってもいいかも知れません。自分のエゴのような、砕くべきものは徹底的に砕き、神様と正しい関係を保ちつつ、神の望まれる姿に全く新しく造り替えていただきましょう。

2)恐れるな、たじろぐな

私たちは今は「虫けら」ですが、それでは終わりません。「両刃の打穀機」と変貌させられるのです。今日私たちは勇気百倍の気持ちを持って、雄々しく進ませていただきましょう。

 written on 980307  by K. Ohta