礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年3月8日

「きょう、選ぶがよい」

蔦田 直毅 牧師

ヨシュア記 24章1〜28節

中心聖句

14 『今、あなたがたは主を恐れ、聖実と信実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、及びエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。

15 もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶが良い。私と私の家とは、主に仕える。』

14〜15節

教訓:主にある選択とは?


導入

社会というものは、私たち人間に様々な曲面で、いろいろな「選択」を迫るものです。私たちはその時に、実に様々な価値観に従って選択をします。ところが、この価値観というもは、時代時代で移り変わっていくものです。特に日本においては、人間の価値観が、「利益」と「他人の目」に重きが置かれていて、価値観自体がかなり相対的であるといえます。これはひとえに、西欧人などの思考に見られる絶対的基準が欠けているからであると思われます。

一つの選択は、その人の人生を左右することもあります。そのような選択に際して、他人の目を気にしたり、その場限りの損得で判断していていいものでしょうか?そういう決め方でないとしたら、いったい人間は、どの様にして最適な判断というものが出来るようになるのでしょうか? 

クリスチャンなら、その秘訣が「神第一の選択をする」事であると答えることが出来ると思います。今日は、ヨシュア記の記事から、神の信仰に基づく選択はどの様なものであるか、取り上げていきたいと思います。


今日取り上げる箇所は、モーセの後継者ヨシュアがその人生の最後に行った民との契約について記した場所です。この場所は、当時のユダヤ人が行っていた契約の典型的な形式を踏んでいます。まず、第2節で「イスラエルの神、主はこう仰せられる...」と言う言葉で始まっていますが、この箇所は全体の序文・全文であると言うことが出来ます。次いで、13節まではその当時の歴史的背景の説明、14〜15節では契約本文、16〜21節では契約を反故にした場合の罰則について、22節では契約成立に立ち会った証人(この場合は当事者当人)の確認、23〜27節ではその契約のしるしをどう定めるかと言うことについて書かれています。

この契約の主文は、「今日はっきりと態度を決めて、自らの神を選べ」ということです。この箇所を今日は3つの角度から見ていきたいと思います。


1)先祖たちが踏み固めてきた、古き良き道を選ぶ。

聖書の述法に、「並行法」と言うものがあります。これは、ある同じ事を正反対の観点から並べて論じるというものです。例えば、詩篇第1編では、「正しき者...、悪しき者...」と言うような表現がありますが、これなどは典型的な並行法の例です。

この並行法が書かれているときに注意すべき点は、二つ並べられていても、そのうちどちらかを選択するように暗に促されていると言うことです。詩篇第1編ではもちろん「正しい者」を選択すべきなのです。

基本は、神の祝福がある方を選択すると言うことです。しかし、キリスト教のおもしろいところは、その選択が強制されていないと言うことです。つまり、選択の自由が人間に与えられていて、人間個人の責任においてその選択をしなければならないと言うのです。

冒頭の箇所では、ヨシュアが自らの人生の終局を迎えて、残していくイスラエルの民がこの後どの様な信仰を持つかを確認しているところです。ここで彼はイスラエルの民に、イスラエルの神である主を信じるのか、それとも土着の宗教や、補囚でいたころのエジプトの宗教を信仰するのか、と聞いています。その上で彼は、「私と私の家族は(=イスラエルの神)に仕える」と宣言しています。つまりこの場合は、イスラエルの神を取りなさいと言うことが暗に示されているわけです。

ここで一つ言っておきたいことは、このような選択が常に神の恵みを伴う方向で行われるべきだ、と言うことです。これはひいては、十分な信仰を持っていれば、この選択は苦痛を伴うようなものではなく、むしろ喜びをもって行われるべき事であると言うことにつながるのです。


2)主に仕える僕の道を選ぶ

僕(しもべ)というのは、奴隷と言うことですが、ここで言う奴隷は一般的に言われる強制的なものではなく「愛のある奴隷」とでも言うべきものです。この当時のイスラエルの民も、整復した土地の人々を奴隷として用いていましたが、これは単に労働力としての役割以外に、本来みな殺ししなければならなかった異邦人の命を助けるための一つの便法であったとも言われています。

一般的にイスラエル民族以外の異邦人は、イスラエルの神を信仰することは許されませんでした。しかし、一定期間奴隷を過ごした者は、その後そこに留まり、イスラエルの民の家族としてイスラエルの民とその神に仕えることが許されたのでした。これは、奴隷であったものが、自らの判断で主の僕となることを選び取るという自発的な選択でした。従って、そこには主人との間の良好な関係と神の恵み、そして何より僕がその道を最高であると思っている事が不可欠だったわけです。

このような自ら僕の道を選択すると言うことは、それほど簡単なことではありません。実際、エジプトから救い出された民は、やがて当初の神への信仰を失い、僕として生きる道を放棄するようになりました。その結果として、モーセ以外に最後まで主への信仰を選び取り、主の僕として生きたヨシュアとカレブだけが、多くのイスラエル人たちが荒野で死んでいく中、約束の地へ入ることが許されたのです。

ヨシュアはこういう事を経験的に知っていたので、主への信仰がいかに恵み深いものかを体得していたのです。

世の中というのは、一時的に見ますと、必ずしも神の道を選択することが得策というわけではありません。むしろ、不法なものを選択したものの方が得をし、先に進んでしまうようなこともあります。しかし、このような選択は長い目で見ますと、必ず失敗であることが思い知らされるのです。これは最近の汚職や不正に関した様々な事件を見れば、おわかりになるでしょう。

厳粛なことですが、本当の勝利は、やはり本物の神を信仰したものにのみ与えられるのです。しかし、イスラエルの民の多くは残念なことに、「となりの芝生が青く見え」、最後まで正しい道を選択し続けていくことが出来なかったのです。


3)告白の道を選ぶ

「主の方を選ぶ」と言うことは、その時一次的な出来事で終わるものではありません。選択というのは、口先だけ「選びます」と言ってしまえばいいと言うものではないのです。「主を選ぶ」と言う局面は、日常生活において次から次へとやってくるものです。その度ごとに、つねに「主の方を選択します」と告白し続けることが大切なのです。

冒頭のヨシュア記でも、最後にイスラエルの民は全員芽腫を選択しますと大きな声で叫びました。しかし、その後の士師記では、民の信仰がすっかり弱くなり、まともな指導者が現れなかったためにイスラエルの民が長いこと混乱にあったことが記されています。つまり、「主の道」を選択したと行っても、その場限りではだめなのです。ヨシュアとその家族のように、どの様な状況下においても主の道を選び取っていく、継続的な信仰の姿勢が求められているのです。このような信仰が、天国に続く唯一の道であると行っても過言ではないでしょう。

また、この選択は誰かが代わりにやってくれるものではありません。みなさん一人一人が、自分の責任で選択しなければならないことです。そういう意味で、本当の主体性が常に要求されるのが、キリスト教なのです。


今日、これまで「神の道」を選択することについて学んで参りました。今、何かを選び取らなければならない方がいらっしゃいますでしょうか?3月という時期に、就職や、進学でその方向性を決めなければならない方もおられましょう。また、信仰に入るのをためらっておられたり、クリスチャンであることを周りに言い出せないでいたりしている方もいらっしゃるかも知れません。

そのような方には、是非今日神様の道を選び取っていただきたいのです。それは神が求められていることであり、そこには神の大きな恵みが控えているからです。

 written on 980308  by K. Ohta