礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年3月22日

「感謝をささげて後、彼らに」

蔦田 直毅 牧師

マルコの福音書 14章12〜26節

中心聖句

22 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」

23 また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。

22〜23節

教訓:感謝の気持ちで聖餐式に臨もう


導入

今日は年会前における最後の礼拝で、当教会では年4回行っております聖餐式の日でもあります。聖餐式は、これまでに何度となく述べて参りましたように、キリスト教・プロテスタントの中における、二つの聖礼典の内の一つであります。ちなみにもう一つの聖礼典は、洗礼です。

聖餐式では、パンと葡萄液がみなさまの元に配られますが、これには次のような意味があります。まずパンですが、これは十字架に張り付けにされたイエスの肉体を意味しております。本来はパン種〔イースト菌〕を入れないパンを用いるところですが、私たちの教会ではふつうのパンを用いております。一部の教会では、この日のためにそのようなパンを焼いているところもあるようです。

葡萄液は、単に「杯」と書かれていますが、イエスの血を象徴する飲み物です。当教会では、ブドウ果汁を用いていますが、別の教会ではワインを用いているところもあります。この葡萄液は、当時の書物を研究した人によりますと、干し葡萄に水を加えた作った抽出液のようなものであったとか、ワインを3分の一程度の水で薄めたものだったとか言われております。

聖餐式はこのようにイエスの血肉を象徴するものを頂くことで、イエスの十字架を記念し、またその恵みを確認するという意味があるものです。旧約聖書との絡みでは、出エジプトの出来事を記念して行われているユダヤの「過越し」の祭りとの関連性もあります。出エジプトでは、ユダヤの民は神の指導により新しい生活にはいることが出来るようになりました。それを忘れないようにと言うことでユダヤの民は「過越し」の祭りを行ったのです。新約聖書においては、このような新しい生活は、イエスの十字架によってもたらされます。そこでちょうど旧約の「過越し」のように、イエスの十字架を記念して、この聖礼典が行われると捉えることもできるのです。

冒頭のマルコの福音書は、使徒ペテロの鞄持ち兼書記であったマルコによって書かれた福音書です。彼は、ペテロの目を通じてみたイエスの姿を福音書に記しました。この最後の晩餐のくだりについては、彼は簡潔に要点のみ記しています。例えば、最後の晩餐のところで、「それから」と言う言葉があり、この聖餐式の話に移るのですが、この間には裏切り者のユダの退場という大変な出来事がありました。

今日取り扱わせていただく箇所には、「感謝して後...」と言う言葉がでて参ります。聖餐式はこのように「感謝」の伴うものだ、と言うのが今日のお話のポイントになります。今日はこの点について、3つの角度からメッセージを取り次がせていただきたいと思います。


1)「感謝」の背景

23節に出て参ります「感謝」と言う言葉はギリシャ語の「ユーカリステオン」と言う言葉が用いられています。実は聖餐式はこの言葉を語源に持つ「ユーカリスト(=感謝の時)」と言う言葉で表されるものなのです。

ユダヤの家庭では、重要なことがあるときの食卓では、必ずその一家の大黒柱である人が、食事の前にお祈りをし、感謝を神にささげるのが習わしになっていました。この場面でもイエスが、感謝をささげたのは、そういう意味からも自然なことだったのです。

ただ、この場面では単に通常の感謝以上の重要な意味が含まれていました。イエスは一通りの食事が終わりかけた頃、イエスご自身を覚えて感謝することを弟子たちに教えられたのです。


2)「感謝」の内容

ユダヤの儀式である「過越し」は、出エジプトの記念に行われ、神の恵みを思い返すためのものでした。イエスの与えられた聖餐式は、このような儀式としての意味合いだけでなく、ある種体験的な恵みでもあります。つまり、イエスは見えない形ではあるのですが、弟子たちに与えたときと同じように、あたかも直接私たちにこのパンと葡萄液を下さっていると、感じることが出来るものなのです。

これは、決して聖餐式が神秘的な意味合いを持っていると言っているのではないのですが、そこにまるでイエスがおられ、私たちにパンと葡萄液を下さっているかのような感動を覚えるのは、みなさんも否定できないことだと思います。

このような体験的な恵みを頂くことが出来ることは、なんと感謝な事だと思いませんか。


3)信仰の営みを伴う「感謝のひととき」

当教会の聖餐式では、他教会でも洗礼をされている方ならどなたでもうけることが出来ます。しかし、洗礼をされていない方には、残念ですが区別をはっきりするために、ご遠慮いただいております。このように、洗礼式に臨むとき、信仰ともつという点において他と明確な区別が付けられているのです。

このような区別は、聖餐式に用いられるパンや葡萄液についても当てはまるものです。これらのものは余ってしまっても、他の物と同じように処分したりしません。ある教会では、残った葡萄酒やパンを必ず司式者がすべて食べなければならないと言うところがあります。こういうところに、司式者で呼ばれたら大変なことになります。

聖餐式の大きな目的は、そこに参加したから何かが変わるというものではなく、お互いイエスの十字架によって罪より救い出された者であると言うことを再認識するということです。聖餐式の前に個人個人ではっきりさせておかなければならないのは何でしょうか。それは、イエスの血肉の象徴であるパンや葡萄液を頂くのにふさわしい身であるかをよく吟味し、悔い改め直すべき所は悔い改めることです。神の前にふさわしくないものを持った状態で望んではなりません。

また、聖餐式に望むとき、「主の杯」のすべてを頂戴することが大切です。これは、「主の杯」の中には、これから十字架にかかられるイエスの苦難や苦痛と言うものも含まれていると言うことを忘れるな、ということです。こういう「杯」を信仰を持って頂かせていただきましょう。

さらには、聖餐式は信仰を持って受けるなら、それに応じて大きな恵みがもたらされる、と言うことを知りましょう。

イエスは、これから来るすべての苦難を含めて「感謝」を込めてパンと杯をささげられました。今日、神の前にふさわしくないものを持っていたら、それを悔い改め、喜びと感謝をもって聖餐式に望ませていただきましょう。

 written on 980322  by K. Ohta