礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年3月29日

第53次年会合同礼拝

「初心に立ち返ろう」

藤本 栄造 総理

テモテへの手紙第二 4章1〜8節

中心聖句

2 みことばを宣べ伝えなさい。時がよくても悪くてもしかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

2節

教訓:初心に戻って宣教に励む


導入

本日は、イヌマヌエル綜合伝道団第53次年会の合同礼拝の日です。全国から、大きな教会、小さな教会問わず、多くの方がここ青山学院講堂に集まっていらっしゃいます。(中略) 


今日のみことばは、「時がよくても悪くてもしっかりやりなさい」というものです。礼拝メッセージを準備させていただくという時、スラスラとできるときもあれば、なかなか進まないときもあります。今日は、年会の合同礼拝のメッセージと言うことで、いろいろと熟慮するときが必要となりました。その中で最初に与えられたことばが、このことばでした。

今日のメッセージについてあれやこれや熟慮していたときに、神様から「そんなに悩まず、初心に返りなさい」と言う導きを得ました。そこで私は「そうだ。この年会私たちの群は初心に返ることが求められているのだ。」と言うことに気付かされたのです。

この「初心に戻る」と言うことは、「将来に備えて、その原点に戻って考えてみる」と言うことを意味しています。では、教会はどのようにしてはじめられたのでしょうか?


教会が誕生して2000年ほど経過しますが、その間に教会が命がけで目指してきたものがあります。それは、教会誕生時に神様から示された「福音を全世界に広める」と言う福音宣教の大命令です。2000年間「教会」はこの命令を果たそうと努力し、またそれを達成してきました。しかし、それは決して簡単なことではなく、まさに命がけで行ってきたものです。「教会」が危機的な状態に陥り欠けたとき、まず立ち返るのはこの原点であるとわたしは思っております。


さて、我々イヌマヌエル教会の原点はどんなものだったでしょうか?第二次世界大戦中、信仰を守ったために投獄された初代蔦田二雄総理は、獄中で「イヌマヌエル(神ともにいます)」を深く感じました。そして、聖書信仰・きよめ・福音宣教を中心とした教会をつくることを決意されたのです。戦後、自由の身になった総理は、当時主流であった海外の協力のもとに行われた教会設立運動とは一線を画し、あくまでも国内の自主的な運動でイヌマヌエル教会を設立しました。

教会設立とともに、まずはじめに重く取り上げられたことは「宣教」でした。発足後まもなく、体制がまだ十分固まってもいない頃、さっそく「積極伝道」活動が開始されました。そして、「開拓伝道」により全国に新しい教会や伝道所がつくられていったのです。

この時は、今のように体制が整っていませんでしたから、着任しても借りたはずの場所がキャンセルになって、最初の内公園に野宿しなければならなかった牧師もおりましたし、毎日の食事にも困った者も大勢おりました。

こういう状況ですから、未来の伝道者を育てる神学院にも絶えず「よい緊張感」が漂っていました。つまり、いつでも、どの様な状況でも、伝道に身をささげる覚悟をしていなければならなかったのです。

1956年に始まった開拓伝道は、1957年に福岡に及びました。この福岡の教会は「わらぶき屋根」でした。今「わらぶき屋根」と言えば、何か目先の変わった者として逆に人目を集めるかも知れません。しかし、当時いかに昔といえども、その周囲にわらぶき屋根の家はそこしかなく、じつに古くさい建物だったことを覚えております。ある教会では、やむなくラーメン屋の二階を借りなければなりませんでした。こういいますと何でもないようですが、「ラーメン屋の二階」と言う場所で、日曜日の昼前に礼拝をやるのは至難の業でした。なんと言っても、メッセージの合間に、ラーメンのいい匂いがしてくるわけですから。そういう厳しい条件の中、開拓伝道は徐々に成果を上げていきました。

圧巻だったのは、第6次年会の前の二年間で、実に13の教会が誕生したことです。この数字は、お金があって、すでに信者さんがいて、と言う条件で達成されたものではありません。厳しい状況の中、なりふり構わず神の御ことばを伝ようとした、その事実の積み重ねがそこまでの成果を生んだのです。


私たちの教会は、こういう原点を持っています。どの様に貧しくとも、私たち自身の手で教会をつくり、そして福音を伝えていく。初代総理は、こういうことが厳しいことであることを知っていながら、あえて伝道活動に力を入れたのです。

このような宣教活動はまた、最初から自信満々な人たちが行ったわけでもありません。多くの方が、「わたしのような者でいいのだろうか」と言う気持ちをもって宣教活動に入っていったのです。わたしにはこのような資質がありますから、これをお使い下さいというような人はいませんでした。一方で、周囲にいかに反対されても、主に信頼して従う、純粋さと情熱を持っていたのです。その基本は、どの方もお持ちであると思いますが、「救われたときのこの喜びを、家族や知人に知らせたい」と言う気持ちなのです。

1994年東京ドームで行われたビリー・グラハム東京国際伝道集会では、ビリー・グラハム師は76才という高齢でした。また、いわゆるパーキンソン病を患っておられ、他の奉仕活動を休まれて、東京大会に備えておられていたそうです。その時のエピソードにこういうものがあります。

76才の高齢と、パーキンソン病という悪条件で、さしものビリー・グラハム師も若干弱気になられたそうです。そして、奥様に「今度東京に行って、わたしは一体何が出来るだろうか?」と聞いたそうです。その時奥様は、「あなたは東京で一人の人を救いに導けばいいのではないかしら」と答えたそうです。この一言が、ビリー・グラハム師を初心に戻しました。と言いますのも、彼がまだ駆け出しの頃、マイアミで一日路傍説教をし続けて全く救われる人がおらず、どうしようかと思っていたところに、一人の人が現れ、その人が救われたという経験を思い出したからです。この経験は、実はビリー・グラハム師の「原点」だったのです。そして、1994年の東京で、神様は彼を通して歴史に残るような御業をなされたのです。


さて、前置きが長くなりましたが、今日与えられましたみことばに移らせていただきたいと思います。

この第二テモテの箇所は、パウロの二回目の投獄時に書かれたものです。二回目の投獄は一回目に比べると短かったのですが、厳しさはより一層でした。そして、殉教が近くに迫っているのを感じながら書かれた書でもあります。あるひとは、この手紙はパウロの心臓の鼓動が聞こえるようだ、と語っています。

その内容は、福音宣教に望む伝道者への教訓・励まし、そして警告であります。

今日取り上げるこの手紙の最後の部分で彼は、「みことばをのべ伝えよ」と語っています。「画竜点睛」と言うことばがありますが、これは「大きな事成し遂げるとき、これなくしては決して完成を見ないこと」をさします。パウロにとっての「画竜点睛」は「みことばを伝える」と言うことに他ならなかったのです。

教会全体の「原点」とは、ここにあるのだとわたしは思います。一口に「イヌマヌエル」「聖と宣」と言いましても、これらのことを達成するためには、一人の人間が救われて教会に来ることから始まるのです。そこがなければ、これらのことを達成することは出来ません。


みなさん、お互いの教会はイキイキしておられるでしょうか?そのイキイキすると言うことのポイントは、その教会がどのくらい伝道に力を入れているかにかかっているのではないかと思います。命あふれる教会というのは、どの時代も伝道に力を入れている教会です。「伝道する教会」、これこそキリストの教会です。これを失うと、教会は命と輝きを失います。

第二次世界大戦の時、ドイツでナチスの運動に反対して投獄された有名な牧師が二人いました。その内の一人は、処刑されてしまいましたが、もう一人は生き延び、戦争後自由の身になりました。その時彼は、何故自分がヒトラーに伝道をしなかったのか悔いたそうです。そして彼は、このテモテ第2の手紙の箇所を示されたと言います。

ここにいらっしゃるクリスチャンの方は、キリストの十字架とその喜びを知っておられる方だと思います。しかし重要なのは、その信仰を行動に移すことなのです。その行動とは「伝道」のことです。その他のことがいかに完全でも、これを欠いたクリスチャンは「画竜点睛を欠く」のです。「地の塩」が「塩気」を失ってはいけません。

昨年私たちの教会全体で、219人の受洗者が与えられました。今年、全国の123の教会でもう一人受洗者を増やすだけでこの数は342人になります。二人なら465人になります。

私たちの群は今年福音の宣教に向かって前進して行くことが求められています。全国の教会、そして一人一人の立場で、伝道に励みましょう。一人一人がみなその初心に返っていただき、こういう意識を持つとき、私たちの教会に今年、新しい命が吹き込まれるでしょう。

 written on 980401  by K. Ohta