礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年4月5日

「主がお入り用なのです」

蔦田 直毅 牧師

ルカの福音書 19章28〜47節

中心聖句

30 言われた。「向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだ誰も乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れてきなさい。

31 もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入り用なのです。』」

32 使いに出された二人が行って見ると、イエスが話されたとおりであった。

33 彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、「なぜ、このろばの子をほどくのか。」と彼らに言った。

34 弟子たちは、「主がお入り用なのです。」と言った。

30〜34節

教訓:受難週、主のご用に聴き従う事を学ぶ。


導入

すでにご報告がありましたように、私は新潟教会へ転任となります。そして、今日が転任前最後の礼拝の奉仕となります。

神学院卒業以来、みなさまとこの教会でお交わり頂き、まことに有り難うございました。また留学から帰国し、家族を持ってから今年で10年目になろうとしておりますが、その間父の召天など様々な出来事の折りに、みなさまに暖かく支えていただき、重ねて感謝いたしたいと思います。

直に、新潟教会に行くことになりますが、詩篇にもありますように「良きゆずりを得たり」と、主がすでに最善をなしていて下さることを感謝しております。新潟教会は、現在礼拝に集っておられる方が20名弱の教会です。年会のメッセージにもありましたとおり、新潟教会では宣教を中心に進めて参りたいと思わされております。そして、願わくば新潟教会を単なる「大きな教会」としてではなく、「育つ教会」として導くことが許されたらと示されております。このような信仰に付き従う家族のもののためにも、お祈りをいただけましたら幸いでございます。


さて、時も迫ってきておりますので、メッセージに移らせていただきたいと存じます。今日扱わせていただく箇所は、「棕櫚の聖日(Palm Sunday)」におけるイエス様のエルサレム入京の下りです。十字架を控えてイエス様は、いよいよエルサレムに入京されますが、その際「ろば」を召され、その背中に乗ってこられました。この時、ユダヤの民は「ユダヤの王」の入京を喜び、棕櫚の葉を降りながら「ホサナ、ホサナ」と歓喜の叫び声をあげ、てイエス様をお迎えました。

今日は、この時のイエス様の「主がお入り用なのです。」というお言葉を中心に、3つの点から受難週のメッセージを取り次がせていただきたいと存じます。


1)「主のご用」は主自身が備えられ、また必ず成就するものである。

冒頭の箇所では、イエス様は弟子たちに「ろばがいるから、それを持ってきなさい」と言うかなり大胆なことを命じられました。もちろんこの「ろば」には、持ち主がいるはずですから、通常の考えではたとえろばがいたとしてもそれを勝手に持ってきていいはずがありません。この場合、この「ろば」は最初からイエス様の入京に備えられてそこにいたと考えられます。つまり、主ご自身がその「ろば」を備えておられた、と言うわけです。その証拠に、弟子たちはイエス様の言われたとおりのことをし、また「ろばの主人」は「主がお入り用なのです」と言われると、結果的にそのまま「ろば」を弟子たちに渡したことが、後を読んでみますと書かれているわけです。

このように「主がお入り用なのです」と言われるときには、その出来事の成就に向けてすでに主が導きをされていると言うことを忘れてはなりません。

この「主がお入り用なのです。」と言うことばは、このルカ書以外にも、マタイ・マルコの福音書にも出て参ります。ただ後の二つの書では、イエス様のことを直接「主」と読んでいる箇所は、このエルサレム入京の箇所だけです。従って、この箇所は「イエス」が主なる神の主権を持っておられるお方であることを強く強調している箇所と言っても良いのです。

主なるイエス様のために、その「ろば」はそこに用意されていたのです。主が私たちに対して備えておられ、また望んでおられることが何かをしっかり捉えさせていただき、そのことの成就が主によってすでに導かれていることを知りましょう。


2)一見すると理不尽に見えても、そこには主のお考えがある。

「ろばがいるから、『主がお入り用なのです』と言って、もってきなさい」と言うメッセージは、弟子たちにとってある意味で理不尽な命令であったかも知れません。弟子たちは、「なんだか無理そうなことだが、イエス様がおっしゃるからやってみよう」とでも思っていたのでしょうか?でも彼らは、その通りに実践し、言われたとおりの結果を出しました。

クリスチャンの人生は、蓋しこう言うことの連続なのではないでしょうか。信仰生活というのは、なにも順風満帆の時ばかりではありません。ある時、神様は我々の信仰を高いレベルに引き上げるために、一見すると無理難題、理不尽な状況に置かれることがあります。しかも、そのような時は決して少なくないのです。

こう言うとき、クリスチャンと言っても人間ですから「なぜこんな目に遭わなければならないのだろう?」「どうすりゃいいんだ?」と言いたくなることもあるでしょう。しかし、こういう考えが出てくるのは、やはり人間の考えが浅はかな故なのです。

神様は真実な方ですから、無理難題の不可能なことは決しておっしゃらない方です。そういう理不尽とも思えることも、常に主の深いご思慮があってのことなのです。つまり、何が最善かは私たち自身ではなく、神様が考えられることなのです。残念なことに人間はたいていの場合、かなり後になってその「最善の恵み」を知ることになります。つまり、人間的思いを優先させてしまっては、神様の用意されたレベルにいつまでたっても到達できないことになります。

従ってここで最も重要な法則は、「神のご指示が出たとき、それは常に最善の方向を示されているということを、心から信頼し、それに従うこと」であると言えます。


3)「主のご用」は「十字架の道」でもある。

ここで言う「主のご用」は、言うまでもなく十字架上にかけられに行くためのご用です。エルサレム入場時、大歓声によって迎えられたイエス様は、数日後今度は同じ民から「十字架につけろ」と罵声を浴び、罪人とともに十字架につけられました。しかしこれこそ、主自身がご計画されたことの成就であり、我々の救いの成就だったのです。

このように、「主のご用」に従うとは、たとえそれが十字架のようにつらく厳しいことであっても、従わなければならないと言うことを指します。

教会学校でよくこの場所は、「ろばの子のようになりなさい」と言う比喩的メッセージに用いられます。それは、何の経験もなく訓練もされていない小さなろばが、イエス様の十字架と聖書の預言の成就という重要な役割に用いられた、と言うことを学ぶためです。

これに関連したことばでアメリカには「FATなクリスチャンになれ」と言うことばがあります。FはFaithful(誠実な)、AはAvailable(受け入れられる)、TはTeacher(教えることの出来る)、と言う意味で、別にFAT(太った)クリスチャンになれ、と言う意味ではありません。

ルカ書のこの箇所に出てくる弟子たち、そしてろばやその主人が、おのおの「主の用なり」と言うことばを信じて、聖実にそれを実行したことが、栄光の十字架とその後の復活の偉業に引き継がれていったのです。

このように「主がお入り用なのです。」と言われたときに、私たちはみなAvailable・受け入れられる状態でなければなりません。自分の都合を優先して、そのご用を後回しにしたりしないこと。いつでも準備していることが大切なのです。私たちの心の中では、主のご用が最優先されなければならないのです。


私も、新潟教会で「主のご用」に当たらせていただきます。みなさまも50周年のこの教会の歩みの中で、「主のご用」に是非心を注いでいただきたいと存じます。長い間本当に有り難うございました。

 written on 980322  by K. Ohta