礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年4月12日

「振り向いてほしい」

井川 正一郎 牧師

ヨハネの福音書 20章1〜18節

中心聖句

12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い布をまとってすわっているのが見えた。

13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「誰かが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」

14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。」

15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。誰を捜しているのですか。」...

12〜15節

教訓:イースターの日、教会に与えられたメッセージ。


導入

幸いなイースターの朝を迎えました。イースターの内容である、十字架と主イエス・キリストの復活は、キリストの中心であると行っても過言ではありません。特に、コリント人への手紙第一15章に書かれていますように、その復活がなければ、キリスト教は成り立たないものです。

主イエスは蘇られ、復活されました。このことを確かな出来事として捉えることが、キリスト教にとって、非常に重要なことなのです。

イエス様が復活されたことが事実であるを示す証拠・理由は初代教会の頃から何度となく繰り返されてきたことですが、今日皆様の学びのためにもう一度まとめてみたいと思います。

1)復活されたイエス様を見たという目撃者が数多く存在した。

2)空になった墓の事実。これは信者以外のローマ人やユダヤ人も認めているところです。

3)復活後の見られた弟子たちの本質的変貌。復活を期に、それまで弱腰で、どことなく頼りなかった弟子たちが、非常に強い信仰を持ち、力図良い働きをするように変貌されたことは、何よりもイエス様の復活があったことのあかしです。

4)2000年間もの間、その事実を伝え続けている、キリスト教とその教会の存在。

5)神の真実なことばである聖書に書かれているから。4つの福音書をはじめとして、新約聖書全般を通じてそのことが繰り返し述べられています。


今日は、ヨハネの福音書20章に書かれた、復活の記事、特にマグダラのマリヤに焦点を当てることが示されています。13節では、空になったイエス様の墓の前で泣いているマグダラのマリヤに向かって、「なぜ泣いているのですか」と御使いたちが聞いています。マリヤは御使いの質問に応じて、後ろを振り返り、そしてその時は気がつきませんでしたが、イエス様を見ることになるのです。さらにその後の15節では、イエス様ご自身が「なぜ泣いているのですか」と同じ質問をマグダラのマリヤにされています。

この「振り返る」と言うことに今日は焦点を当てます。今日神様は、我々一人一人がマリヤと同じように「振り向いてほしい」と語っておられます。「振り向いてほしい」、今日はこのことばの意味を4つの点から探らせていただきたいと思います。


1)絶望からの方向転換をして欲しい。

13節では、御使いが「なぜ泣いているのですか」とマグダラのマリヤに聞いていますが、これは神の御声と捉えることができます。なぜマリヤは泣いていたのでしょうか。それはイエスが十字架に架かって死に、墓に葬られ、そしてそのからだが墓からなくなってしまったからです。つまり、愛すべき主が目の前からいなくなってしまったという悲しみ、絶望感であったわけです。

この時に御使いから発せられたことばは、この絶望状態からマリヤが方向転換をするように与えられた促しだったのです。つまり、「絶望と失意」の象徴である「墓の中」から「希望」の象徴である「イエス」へと視点を変えなさいと言うことなのです。えてして、絶望と失意のどん底にある人は、周囲に本当は広がる明るさや、そして神自身も見失っていることが多いのです。こういう方に、神様は「振り返りなさい」と方向転換を促されているのです。


2)新しい信仰理解への方向転換をして欲しい。

「振り返る」と言うことに含まれているもう一つの意味は、信仰に若干の方向転換をしてほしいと言うことです。17節では、イエス様はマグダラのマリヤに向かって「私にさわってはなりません。」と語られました。これは他の人間には言われていないことです。何故なのでしょうか?

これについては、学者の意見も千差万別です。ある人は、「イエスが天に戻るのをじゃましてはならない」と言う意味だと考え、ある人は同じような意味ですが「イエスの大祭司としての務めを妨げないように」と言う意味だと言っています。また、「ここは余りよく分からない点だから、無理に説明を付けずにほっておくのが良い」という人までいます。

いずれにせよ、それまでマグダラのマリヤはイエス様に触っても一向にかまいませんでしたので、この時点からイエス様とある意味で新しい関係に移っていくことが求められていると言えるのではないでしょうか。

ここでイエス様が求めておられた新しい関係・新しい「信仰の眼」とは、信仰的・霊的関係であると思われます。つまり、これまでは地上で人間的に関わってこられた方が、この十字架と復活を期に、霊的・精神的・信仰的な存在に変わっていくというものです。

これにはどういう意味があるのでしょうか。

i) 目には見えないが、イエス様は確かにおられる、と言う信仰を持つように変えられる。私たちのそばにいつも伴っていて下さる主イエスの存在を、霊的に捉えること。

ii)  主イエスがいつも個人・個人に最善をなしていて下さる、と言うことを信じること。

iii)  私自身と同じように他の人にもイエス様は同じように愛情を注いでおられる、と言うことを理解すること。これは「分かち合う信仰」であり、人の幸せをねたんだりせず、その幸せを自分のことのように喜ぶ信仰です。

以上のような「新しい」信仰を持つことが、マグダラのマリヤ、そして私たちにも示されたのです。


3)新しい時代と使命へ、方向転換をして欲しい

「振り返りなさい」とおっしゃるイエス様のことばは、新しい期待に満ちた時代への幕開けを意味しています。それは、内側に向かったあかしと言うよりも、外側へのあかしへの方向転換を意味しています。

我々の教会も今、否応なく方向転換することが必要になっています。また、新年度で新しい道へ踏み出された方なども、ある意味でこういう方向転換を迫られておられるでしょう。

今私たちには、「マリヤよ...」と言う個人的な召し・期待が直接神様から語られているのです。失意のどん底にある方も、どうぞ新しい期待の新時代へ向かって一歩踏み出しましょう。


4)イエス様のことばは、慰めと励ましに満ちている。

私たちは、このマグダラのマリヤとイエス様の会話の中に、イエス様の慰めと励ましを見ることが出来ます。イエス様は、悲しみと失意のどん底にあるマグダラのマリヤに、優しく声をかけられました。イエス様というお方は、常にこのように私たちのそばにあって、必要なときに励ましの声をかけて下さる方なのです。このことを私たちはしっかりと証ししていく必要があります。こういうことばを与えられますと、私たちは変わらざるを得ません。そして、どん底からはい上がることが出来るように強められるのです。

ですからみなさん、「マリヤよ...」と言うことばに、どうぞ自分の名前を当てはめてみて下さい。そうすることで、マリヤと同じように、涙も止まり、強められ、難局や試練に立ち向かう力が得られるのです。これは言い換えれば、人それぞれの仕事に、本気で積極的に取り組んでいくことが出来るようになると言うことです。

ここで注意すべき点は、私たちはイエス様とともにあるときにのみ、こういう力強い歩みをすることが出来る、ということです。イースターのこの朝、我々一人一人に、このイエス様の励ましの声が向けられているのです。お互い、振り向いて、頭を上げて新たな道を歩みましょう。


適用

最後に今日のメッセージの、実生活における適用を見てまいりましょう。

1)まず涙を留めましょう。悲しみの嘆きから抜け出すことです。

2)神様から声がかかっていることに気付きましょう。また、神の声を聞き分けましょう。そのために必要なことは、聖書のことばと祈りです。これを守るために、集会出席や日々のディボーションなどの恩寵の手段を大切にすることです。

3)主イエス様にお目にかかりましたという経験をあかしする事に、心を注ぎましょう。

 written on 980412  by K. Ohta