礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年4月19日

50周年記念礼拝の辞

「私の神に感謝します」

藤本 栄造 総理

ピリピへの手紙 1章1〜11節

中心聖句

3 私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、

4 あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、

5 あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。

3〜5節

教訓:神への感謝とともに迎える主都教会の50周年


導入

今日は、このイヌマヌエル主都中央教会の50周年記念礼拝の日であります。この喜ばしい日にお招きいただき、こうして講壇でご奉仕できますことは、私にとっても大変光栄な事であり、御名をあがめて感謝いたしております。

一口に50年と言いましても、その間日本には実に大きな変化がありました。50年前と言いますと、まだ戦後の貧しい頃でして、かなりの方が今で言うところの「ホームレス」に近い生活を送っておられました。

そのような戦後の混乱が続く時期に、この教会は蔦田二雄初代総理の指導のもと東京・丸の内の地に誕生したのです。当時は、礼拝に約30名、祈祷会に約15名が集う小さい所帯でした。その後有楽町の「交通協会ビル〔今の有楽町交通会館〕」から、蔦田真実先生の時に現在の広尾の地に移ってこられ、このように大きな教会になってきたのです。

この50年の主都教会の歩みは、実にめざましいものであり、またすさまじいものでした。イヌマヌエルの群全体の創立者である蔦田二雄初代総理は、私の恩師であり、また指導者でもあった方です。初代総理は、丸の内で教会をスターとするとすぐに、後継者育成のための神学院を教会内につくられました。また、丸の内の教会を拠点として、全国に教会、海外各地に宣教地を設立し、現在では123の国内教会が出来るまでになっております。そういう意味では、皆様の教会の歴史は、そのままイヌマヌエルの群全体の歴史と重なっているのです。


今日は、パウロによる書簡の中のピリピ人への手紙のことばを語るように導かれました。どうしてかと申しますと、このピリピの教会と皆様の教会には深い関わりと申しますか、共通点があるからです。まず、その点について見て参りたいと思います。


i)指導者のビジョンによって作り出された教会

ピリピの教会は、パウロによる二回目の伝道旅行の際につくられた教会です。パウロは当初マケドニアではなくローマ方面への伝道を考えておりましたが、マケドニアでの伝道をするように「ビジョン」を見たのです。そしてまず作った教会がピリピの教会だったのです。いわば、ピリピの教会はパウロの「ビジョン」が生み出したようなものだったのです。

皆様の教会も、初代総理の「聖と宣」というビジョンによって生み出された教会です。戦後船橋で誕生したイヌマヌエルの群が、日本の中央であり首都である東京に進出する際、まさに初代総理のビジョンのもとに生み出された教会なのです。


ii)純粋な信仰によって福音をのべ伝えた教会

パウロのピリピでの働きは実に実り多いものでした。なにより彼が喜んだことは、教会員が最初に救われて以来、ひとときも変わらず福音の宣教に心血を注いできたピリピの教会ができたことです。イヌマヌエル教団全体の中にあって、この主都中央教会は、実に純粋な信仰を持ち、初めから今に至るまで福音を広めて参りました。


iii)暖かく、愛情豊かな教会

主都中央教会はこれまでたくさんの他の教会を助けてきました。ピリピの教会を含むマケドニアの諸教会も、惜しげなく他の困っている教会を助けたと、聖書には書いてあります。パウロの伝道も、一度や二度ではなく、ピリピの教会に励まされたようです。このように、ピリピの教会も主都中央教会も、キリストの愛にあふれた教会です。


さて、今日のメッセージに移らせていただきたいと思います。

1)まず感謝することが希望と勝利につながる

今日中心的に取り上げます3節のお言葉

「私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、」

は、4章あるピリピ書を読むにあったってまず最初に目にすることばでもあります。つまり、このことばを開かずして、ピリピ書を読むことは出来ないのです。

思いますに、信仰生活で「感謝します」と言うことばは実によく使い、また使い慣れたことばでもあります。みなさんいつからこのことばをよく使うようになったか考えてご覧なさい。それは、イエス様による救いを受けてクリスチャンになった時からでしょう。クリスチャンになると、この「感謝」と言うことばにあふれる生活がもたらされるのです。

実は、感謝できる人と出来ない人には、天と地ほどの差が出て来ます。入院しているある方を訪ねたとします。その人は最近妻がすっかり来なくなってしまったこと、看護婦や医者の態度が冷たいこと、病院の食事がおいしくないこと、なかなか眠れないことを訴えます。実はこれらの事の本当の原因は、この方の「感謝の気持ち」が薄れてしまっているからなのです。

逆に、お見舞いに行くとこっちの方が元気づけられるような方もいます。私が知っているある方は、ガンの末期で大変苦しいときにも感謝を忘れませんでした。その方から最後にうかがった話は、「私は先生方に看取っていただけて、本当に幸せです。」と言う感謝のことばでした。このことばはお見舞いに言った私どもを大変励ましたものです。

たとえ苦しい逆境の中にあっても「感謝」することが、やがて希望や勝利に結びついていくのです。まず初めに感謝することが出来る人は、よしここで何とかしてみようと踏ん張りがきいてきますし、また常に前向きに物事を考えられるようになるからです。

この教会も50周年を経て、次の50年へと進み出しました。ですから、このピリピの手紙にあるように、その出発の初めに是非感謝の気持ちをもって進んでいただきたいと思います。


2)「感謝します」という宣言をする

冒頭のパウロのことばには、何か宣言のような強さがあります。これは「主イエスを信じます」という信仰告白に近いものです。

これに近いものに食事の前のお祈りがあります。私たちは食前に神様に感謝の祈りをささげますが、このお祈りがなければ、食事の時にいろいろ不満がでてきたりするかもしれません。食事の前にまず感謝の宣言をすることで、つまらない不平や不満の気持ちが頭をもたげなくて済むようになります。

このように感謝の宣言を初めにしてしまいますと、その後が全て良い方向へ変わってきてしまいます。このピリピ書でパウロがまず初めに感謝したのには、そういう意味もあるのです。よく信徒の方からの手紙の初めに「主に感謝いたします」と書かれていることがありますが、こういう方はたいてい良い信仰を持っています。このことばで、その方の信仰のすべてがわかるような気がします。

ですから、次なる歩みをされようとしているこの教会の方にも、まず「感謝の宣言」をしてから歩み始めていただきたいと思います。


3)「私の神」に感謝する

パウロは冒頭のことばで「私の神」という言い方をしています。じつはこの「私の」ということばが非常に重要なのです。もちろん神様というお方は、全てを創造された主であり、天を支配されている方であります。では、どうしてパウロはこういうお方を「私の」と呼ぶことが出来たのでしょうか?

それはパウロがイエス様の十字架の救いにあずかり、すでに神の子とされているからです。これは何もパウロに限ったことではなく、クリスチャン全体に通じることです。

このように神様を「私の神」と呼べるようになっても、クリスチャンは何も悲しみや辛さからすべて解放されたわけではありません。ただ、クリスチャンはそういう苦しみさえ、神様から頂いたものだと受け取り、感謝することが出来るようになるのです。

初代総理が突然召されたときは、私どもも悲しみの中大変な困難な状況にありました。また、先代の蔦田真実主任牧師が召されたときも、この教会や私たちに大きな悲しみがありました。

こういう状況は、牧者以外の信徒の皆様にもあり得ることです。ご主人を突然天に送られたある方が、お祈りをしたいと申し出られたことがあります。その方は、悲しみをこらえてお祈りを始められましたが、「私は神様に感謝します」とおっしゃられてから、涙が留められず、しばらくしてから「愛するわが主人をみもとにお招き下さり、感謝します」とお祈りを続けられたのです。

このように、私たちクリスチャンは、良いときだけでなく、つらく大変なときにも感謝することができる特権を持っています。その時つらいと思われることでも、神様がお与えになられたことは何でも感謝して受け入れることが大切です。

今朝、50周年記念の時、たくさん感謝することがありますね。救われたこと、ここまで導かれて主都教会の一員としてやって来られたこと、今日ここに参加することが出来たこと、様々なことが感謝の対象になるでしょう。ここで注意したいことは、その感謝の中心は「私の神」だということです。

この「私の神」への感謝を区切りとして、皆様には新たなスタートを切っていただきたいと思っております。


最後に、3つのことばをお示しして締めくくりたいと存じます。

1)詩篇50編23節 「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。」

感謝を通じて神様があがめられること、これは私たちクリスチャンの特権でありまた願いです。私たちが50周年を感謝して祝うのも、また神様がそれを通じて崇められるためです。

2)詩篇51編17節 「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません。」

「神へのいけにえ」ということばは、決して儀式めいたものではありません。その本質は、神様の前に本当に心砕かれて献身しきれるかという事なのです。今日私たちは神様に感謝の祈りをしたいと思っています。感謝をささげるというのは、皆様の心が砕かれ、救われた最初の頃の純粋な気持ちに戻ることなのです。

3)ローマ人への手紙12章1節 「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

生きたからだを供え物とするということは、魂・心の献身を意味します。「私の神に感謝します」というときにみなさん「アーメン、その通りです」とうなずかれると思います。そうして感謝いたしましたら、次のその気持ちを何かの形で示したくなります。

この日ここまでこの教会を導き守ってこられた主の御名が崇められるよう、その時こそ心を砕くことです。そして、「このような者ですが、どうか天国に行くまでよろしくお用いくださり、またお守り下さいますように」と感謝とともに祈れるようになりましょう。

50周年記念の今日、皆様に是非こういう献身を表していただきたく願っております。


 written on 980419  by K. Ohta