礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年4月26日

「その地の産物を食する」

井川 正一郎 牧師

ヨシュア記 5章10〜15節

中心聖句

 「彼らがその地の産物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた。」

12節

教訓:神様は私たちに、何を願っておられるのか


導入

前主任牧師が昇天されて2年になります。この間、副牧師が交互で礼拝の講壇を務めるという言わば過渡的、変則的なものでしたが、それなりの意味がありました。その過渡的な講壇も今日で最後になるでしょう。この度、竿代主任牧師を迎え、本来のあり方に戻ります。来週、5月3日は、就任礼拝になる予定です。

イスラエルの民は、カナンの地の直前まで来ました。荒野での生活が締めくくられようとしています。マナによる荒野での生活から、定住していく生活へ変えられる様子が示されているのが、5章の後半です。

今日はこの個所を通して、神様が、我ら1人ひとりに何を願っておられるのか、また、何を期待しておられるのかを3つの点から考えてみたいと思います。

荒野での生活から定住生活への切り変わりに際し、必要なこととは何でしょうか。それは、実は、あらゆる時代、永遠から永遠に適用される普遍の法則でもあります。


1)ただ単に与えられる人生から、生み出す人生に切り変わって欲しい

これは「棚からボタ餅式」人生から、苦労して汗を流し生産する人生へ、言い換えれば、幼な子の信仰から大人の信仰へ切り変わって欲しい、ということであります。新しい時代に期待されていることはこのことです。

そのため、大人として自立し、訓練されていかねばなりません。与えられる側から、与える側になっていく、自らが周りの方々へ分け与えることが出来るような生産力をもった信仰に、お互いなりたいものです。

2)定められた法則を身に付けて欲しい

カナンにおける定住生活では、荒野での生活以上に、生活のための法則というものがあります。聖書にも記されているとおり、霊の糧を生み出す法則は、いっぱいありますが、3つにまとめてみます。

法則1:恩寵の手段の活用

集会出席、聖書を読む、祈ることにより神様からの恵みを受けることが出来ます。聖書がそのように語っています。もしこのことが崩れかかっているようなら、今日こそもう1度「壇を築き直す」機会であります。

法則2:条件を果たす

先の恩寵の手段とは、神様からの恵みを受けるためには、こうした方がよいですよ、というもので、絶対必要というものではありませんでした。しかし、ここという条件は、それが果たせないと信仰者ではないというものです。救いについては、「悔い改め」、きよめについては、「罪から離れている」ということです。これがないと救いもきよめもありません。罪から離れ、神様を第一とした生活をしなさい。

法則3:自分で責任をとる

イスラエルの民は荒野で、不平・不満を述べてきました。しかし、私たちは「現在のこういう状況は、○○のせいだ」などと人のせいにしてはなりません。言い訳、自分の正当化、責任転嫁は、大人の信仰者のすることではありません。

3)罪の世の中にあって、罪に汚れない我らの歩み、が期待されている

異邦人の中にあって「我が家と我は主に仕える」、また、異邦人の中にあって、異邦人の色に染まらない、妥協しない、ということです。「世の中の人とどう違うのだろう」とか、「日曜日、教会に来ていることだけが違い」ではしょうがありません。お互い”区別される”クリスチャンでありたいものです。

出エジプト記8章22〜23節(「・・・わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。このしるしが起こる。」)を見て下さい。ここで、以下の3つのことがわかります。

[1]神の臨在がある

[2]神の栄光が多くの人に表される

[3]神がおられることに付随する多くの神の恵みがある

周りの人に大きな恵みを表し、神様の民らしい輝きを照らしなさい。なぜこの人が神から祝福されるか、違いのわかるほどの信仰者になりなさい。


今日のメッセージがはっきりしてきました。具体的にはどうすればよいでしょうか。

1)何とか最後まで、決着を着けるまで、その場にとどまっていましょう。

言い換えれば、逃げるな、放り出すな、ということです。荒野では逃げることも出来ましたが、定住生活では逃げれません。きよめの問題ですが、「あの人はヤダ」と言っても、逃げてはいけません。職場を変えても、また別のイヤな人が出てきます。神様にお祈りしながら、決着が着くまで、頑張りましょう。

決着は着くのです。なぜなら、5章13〜14節(「あなたは、私たちの味方ですか。敵なのですか。」「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」)にあるように、そこに味方があられるのです。職場にあって、家庭にあって、決着が着くまで信じてとどまっていなさい。

2)どんな時にもへりくだり、謙遜をもって、対処しましょう。


これまでは、未熟ではありましたが、降ったマナによって養われてきました。これからは、その地の産物を食することが出来るようになるまで、成長しなさい。恵みにより、戦いには決着が着くのです。逃げてはいけません。イエスさまが味方なのです。

 written on 980426  by N. Sakakibara