礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年5月3日

「キリストの教会」

竿代 照夫 牧師

マタイの福音書 16章13〜20節

中心聖句

 「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」

18節

教訓:「キリストの教会」が目標


導入

この度の年会で、この主都中央教会に任命を頂き、先頃18年に及ぶケニヤでの奉仕を終え、先日日本に戻って参りました。

この場をお借りして、皆様に二つばかりお詫びをしたいと思います。まず第一に、任命を頂いてから赴任が少し遅れたことです。これは、以前から予定されていたケニヤでの奉仕を行うためです。今ケニヤでは、ナイバシャ、キスム、カカメガなどでの教会開拓が行われております。皆様も是非覚えて頂き、お祈りをして頂きたいと思います。

もう一つのお詫びは、このネクタイです。牧者としての適当な服装というものがどういうものか定かではありませんが、今日の私のネクタイはちょっと派手だな〜とお思いの方もあるかも知れません(笑)。

実はこのネクタイは、ケニヤで記念に頂いたもので、ケニヤの国旗のデザインをあしらったものです。頂いたおりに、是非日本でこのケニヤの国旗をアピールしてきてくれと頼まれましたので、では最初の礼拝でこれをつけましょう、ということになったわけであります。礼拝の後で、みなさんにご挨拶に伺うと思いますので、その時に是非近くでご覧いただければと思っております。

先ほども申しましたとおり、わたしはこの18年間ケニヤでの宣教活動を行って参りました。この間、わたしを支えていたみことばは、

「わたしは異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。そして、それによって何とかわたしの同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。」(ローマ人への手紙11章・13〜14節)

というパウロの心情を語ったものでした。つまり、奉仕はケニヤでの宣教活動でしたが、それを通じて少しでも多くの日本人を救いに導くことを念頭に置いていたのです。

この度の転任は、その願いを具体化するためのステップと積極的に受け止めております。つまり、主都の愛兄姉との協労を通じて「幾人」かの人々を救いに導き、さらに宣教者を送り出し、また宣教者を支える宣教教会としての成長を許して頂きたいと願っております。宣教師としての立場ではなくなりましたが、宣教師の心を持って伝道と牧会にあたりたく願っております。


この教会を牧するにあたり、方針というものを示すとしますと、まず第一に「聖書が明らかに示す教会像」を求めたいと言うことです。これは言い換えますと、「主のみことばがガイドラインとなる」ということに他なりません。

次に牧者としての役割ですが、わたしはエペソ書にありますように「聖徒たちを整える」働きと、「信徒の信仰を助ける」働きを持っていると捉えております。

具体的にどの様なターゲットを持って伝道していくかということに関しましては、是非皆様方と膝を交えてその方向を決めていきたいと考えております。今週は少しお休みを頂いて、来週から早速組会の方に出向きまして、皆様と懇談の時を持ちたいと思っております。その時は是非遠慮なく、ご意見を頂きたくお願い申し上げます。

私は皆様もご存じのように、もう18年間も日本的な「本音と建て前」を使い分ける環境から離れておりましたので、すべて「本音」でお話をします。ですから誠に恐縮ですが、それで躓かれたという方がおられましたら、その時は是非「躓きました」と本音でおっしゃって下さい(笑)。要は皆さんと是非本音で語り合っていきたいと思っているのです。


さて、本日のおことばに移らせていただきたいと思います。今日のおことばは、ペテロにイエス様が「わたしはなにものだと思うか?」とご質問なさった箇所です。この場所で主イエスは、教会建設の宣言をなされました。そこには教会の建設者・所有者・土台・主権者が誰であるかがはっきりと書かれています。今日はこれらの点を捉えさせていただきたいと思います。

1)主イエスが教会の建設者

教会は誰が建てるのでしょうか。冒頭の箇所では「わたしが建てる」と実にはっきり、教会は主キリストが建てるものであると書いています。「わたしが建てる」というのは、主イエスご自身が主体的に教会を建設なさるという宣言なのです。

では教会に属する人間は、どうゆう役割を持っているのでしょうか?それは神の働きに対する助力者としての働きです。

この点に関してはコリント人への手紙第1の3章5〜7節でパウロが語っていることが参考になります。

「アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。

わたしが植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」

パウロは言うまでもなく異邦人伝道に命をかけ、多くの教会の建て上げに力を尽くしてきた人物です。こういう人物ですら、その教会建設は神の働きであり、自分は神の働きに少しばかり助力しただけだと言っているのです。

冒頭のマタイの福音書に戻りますと、ここで主イエスは「教会を建てよ」と言ってはおられないことに注目してください。あくまで、教会を建てるのは主イエスご自身なのです。つまり、教会成長の主因はパウロが言っているように「成長させてくださる神」なのです。

どうか、

主ご自身が教会の原動力である事を認めること、

教会建設が主のお仕事であるというへりくだりの気持ちを持つこと、

そして主は約束を必ず成就してくださると言うことを信じること

この3つのことを皆さんに捉えていただきたいと願っております。


2)教会の所有者は主イエス

冒頭の箇所で、主イエスは「わたしの教会」と言う言い方をしています。これは原語では、「ムーテル・エクレーシア(私のものである教会)」と言う大変強い言い方がなされている箇所です。つまり、教会はいかなる人間の所有物でもなく、神・キリストご自身の所有物なのです。

思うに、このことはしばしば忘れられている事ではないでしょうか。よく牧師の集まりなどで、「あなたの教会はどうですか?」と言うような言い方がされることがあります。これは、一つのものの言い方で、教会そのものが牧師に帰属しているわけではないのです。言い換えますと、牧師はその教会の運営を委ねられているだけにすぎないのです。ペテロはこの点を牧者は「イエスに雇われている羊飼い、羊は神の羊である」と言っています。

同時に教会は信徒の所有物でもありません。よく、教会への帰属意識を高める上で、「おらが教会」と言う意識を持てと言われます。しかしこれが行きすぎて、「信徒が教会のあるじ」になってしまってはそれは問題であるといえます。

自制とへりくだりを持って教会に参加することが牧者・信徒それぞれに必要なことなのです。


3)教会の土台は主イエス

今日のおことばの中で、主イエスは「ペテロの岩の上にわたしの教会を建てる」と宣言されています。カトリック教会ではこの箇所が、教会がペテロという個人の上に立てられたものであるという捉え方をしています。そして、その権威はローマ教皇の絶対性・無謬性の根拠になっています。しかし、主イエスがペテロという人間に教会を建てたのでないことは、それ以降の聖書を注意深く見ていきますとよくわかります。

たとえば、その後すぐにペテロは主イエスに「さがれ、サタン」と言う大変厳しい言われ方をされています。ペテロはまた、イエスが十字架にかかる前、三度も「イエスを知らない」と言ってしまいました。人間とはこういう具合に実に不安定な存在であり、そのような不安定な存在が教会の土台であることは考えにくい事です。

聖書全巻を通して言えることは、むしろ主イエスご自身が教会の土台であると言うことです。ここで主イエスがペテロに言われた「ペテロの岩の上に教会を建てる」という宣言は、マタイの福音書16章16節にある、ペテロの主イエスに対する信仰告白に対して行われたものと見るべきなのではないでしょうか。

このように教会の土台とは、教会を構成する私たち一人一人がキリストを人生の土台として据え、キリストを主としてお迎えしている事を告白することにあるのです。


4)教会の主権者・ボスは主イエス

先程述べました、キリストを主としてお迎えすると言うことは、キリストを「ボス」としてお迎えすると言うことです。これはイエスを心の主権者としてお迎えし、あらゆる願望や思いをそのボスである方に委ねることを意味しています。

ところが現実には、教義の多くを受け入れつつも、その実質は「自分」が依然として主として居座り、都合の良いときのみ神頼みという人が多いのではないでしょうか。

こういう自分本位の信仰ではなく、どの様な小さな事ごとの決定においても、「主よ何がお望みなのですか?」とお伺いを立て、常に主により頼み、従いいつつ生きることが大切なのです。これは文字通り、「聖潔(きよめ)」と言うことに他ならないでしょう。

こういう条件を満たしますと、何が恵みとして与えられるのでしょうか?冒頭の箇所で主イエスは、そのように建てた教会は「ハデスの門もうち勝つことが出来ません」と語っておられます。

「ハデスの門」というのは「死の世界」であり、サタン・悪魔の支配する世界の象徴です。つまり、神の建てた本当の教会は、どんな悪の攻撃を受けても大丈夫と言う、神による完全な保障が宣言されているのです。

主がここまで導いてくださったこの教会に、私はまだどの様な課題があるのか知りません。ですが、何はともあれ、皆様にこのことばが与えられていると言うことを知っていただきたいと思います。

主のお約束はいつも真実です。

また、このことばは教会全体にだけではなく、その枝葉としての私たち一人一人にも与えられていることばです。世においては様々な悩みや試練があるものですが、主が戦って下さり、必ず勝利をもたらしてくださると言う約束があるのです。皆様には是非、最後に「ついにハデスの門はうち勝つことがなかった」とあかしして頂けるようになっていただきたいと願っております。


Editied and written by K. Ohta on 980503