礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年5月10日

「子供に学ぶ」

竿代 照夫 牧師

マタイの福音書 18章1〜6節

中心聖句

 1そのとき、弟子たちがイエスのところにやって来て言った。「それでは、天の御国では、誰が一番偉いのでしょうか。」

 2そこで、イエスは小さい子供を呼び寄せて、彼らの真ん中に立たせて、

 3言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子供たちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。

 4だから、このこどものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。

 5また、だれでも、このような子供のひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。

 6しかし、わたしを信じるこの小さな者たちひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。」

1〜6節

教訓:子供のような素直でへりくだった信仰を


導入

今日は母の日です。母の日は、アメリカの、Anna M. Jarvisと言う女の人によって始められた運動です。彼女の母はグラフトンの教会で教会学校の教師をしていました。彼女はその母親を大切にしていましたが、やがてその母親は天に召されたのです。Jarvisは、多くの人が母親を大切にしていない現状を問題に思い、「モーセの十戒」に書かれているように両親、特に母親を大切にする日を制定する運動を開始しました。そして、1908年5月10日、グラフトンの教会で亡き母への感謝を込めて、カーネーションをつけて礼拝を守ったのです。これを契機として、1914年には当時のウィルソン大統領の指示に従い、全米で5月第2日曜日が「母の日」と制定されるに至りました。

今日はまた、教会学校#教会学校の起源参照)を特別に覚える日でもあります。午後には、教会学校に関する特別な集会もあります。そこで、冒頭の箇所を中心に、3つのこと(子供たちのようになりなさい、子供たちを受け入れなさい、子供たちをつまずかせてはなりません)をお話しさせていただきたいと示されております。


その前に、まず冒頭の箇所の背景についてお話ししなければなりません。

冒頭の箇所では、いきなり「それでは」と始まっていて、話がつながりません。誰でもいきなり「それでは」と話を始められては困惑してしまいます。この背景は、マルコの福音書9章33節のいわゆる「並行記事」を見てみるとよくわかります。

カペナウムに向かう道すがら、弟子たちはお互いに誰が一番偉いかと言うことで、論じあっていました。これは、彼らのイメージでは、イエス様の話された「天の御国」は、いわゆる「イエス政権」のようなもので、弟子たちはその国では皆閣僚になると思っていたからです。つまりは「イエス政権」下で、誰がNo2になるのかという話をしていたのです。

これに対し主イエスは弟子たちに、それは全く見当違いであると語られ、天の御国とは最も謙遜な者が最も偉い国であると語られたのです。

人間なら誰でも持ちやすい「偉くなりたい、高い地位につきたい」と言う願望が強くでてしまう、こういう事が主イエスの弟子たちや、私たちの教会にも起こり得ることなのです。


1)子供たちのようになりなさい

このような問題が生じたとき、イエス様は「子供に学べ」と語られたのです。ここでちょっと子供さんにお手伝いいただきましょう。小学校一年生の人はいますか?手を挙げて下さい。はい、では下におりてきて、ここに来て下さい(笑)。

イエス様は弟子たちに「子供に学べ」と言うことを伝えるには、ことばだけでは足りないと思われたのか、子供たちをこのように前に呼び寄せたのです。今日はそれを少しまねしてみたわけです。いつまでも、こうしていると大変でしょうから、もう結構ですよ(笑)。どうも有り難う。

子供たちに学ぶことは何でしょう。それは子供たちの持つ素直さです。また、小さい子供は、自分が小さい存在であることを知っており、謙遜です。また、親に対して全幅な信頼感を持っています。最近の子供は、ずいぶん大人びているとおっしゃる方もいらっしゃるでしょうが、このような小学校一年生ぐらいの子供は、まだ大丈夫でしょう。

このような子供たちの姿勢を学びなさい、と言うのが主イエスのメッセージなのです。イエスのことばの初めに「まことに」とありますが、これはその後に続くことばが大切ですよと言うメッセージになっています。しかも、イエス様はその後すぐに「悔い改めて」と続け、弟子たちに命令しています。この「悔い改めて」のもとのギリシャ語は、「転換する」と言う意味の随分と強い表現です。しかも、徐々に時間をかけて持ちなさいと言うのではなく、一瞬にして持てと言う表現になっています。

つまり、競争心や妬む心をかなぐり捨て、子供たちのような純真な心に転換しなさい、そうでなければ天の御国に入ることすら許されない、ということを話されたのです。冒頭の箇所では「決して」と言う言葉が使われていて、かなり強い二重否定で「子供のようにならない者は絶対に天国に行くことは出来ない」と表現されています。今日このようなイエス様のお薦めにすぐにうなずいて、自分のものにしていただきたいと思います。

また、4節では心の転換の後、継続的に子供のように謙遜であり続けることが大切であると語られています。心の高ぶりを押さえ、謙虚であり続けることが大切です。


2)子供たちを受け入れなさい

5節でイエス様は、「子供のひとりを受け入れなさい」と言われました。

昨今の社会では、日々子供の問題が大きくなっているようです。わたしはしばらくアフリカにいたのですが、それでも日本の子供たちの様々な事件は聞き及んでおります。こう言うとき必ず出て参りますのが、「対策」とか「対応」とか言うことばです。このことばの背景には、大人である自分たちには問題がないけれど、ものの判らない子供を何とかしようという、上に立った見方がなされているようです。

しかし、イエス様はそういう上に立った見方ではなく、子供たちと同じ視点で「子供を受け入れなさい」と語られました。これは子供たちをあるがまま、理解し、愛しなさいと言うことに他なりません。子供たちの関心事を、子供たちの立場で理解するように務めることで、初めて本当の対応策や対策というものが出てくるのです。


3)こどもたちをつまずかせてはなりません

6節では、子供たちをつまずかせてはならないと書いてあります。いやもっと厳しく、子供たちをつまずかせるようなものは死んだほうがましとまで書かれています。

これは、子供たちを大人の間違った行いによって、誤った方向に導いてはならない、と言うことを示しています。私たちが何の気なしに口にする他の人や、教会への批判などが、知らず知らずの内に子供たちの心を傷つけ、つまずかせてしまうことがあるのです。また、私たちが日頃行っていることと、実際行っていることが違う、と言うようなこともありましょう。あるいは、「あの子に負けるな」と大人の競争心を子供に無理矢理植え付けてしまうこともあるのです。

つまずかせるものはどうなるか、大変怖いことが書かれています。ここでは大きな石臼にかけられて湖に沈められると書かれています。この石臼は、普通の大きさのものではなく、馬やろばに引かせる巨大な「業務用」石臼です。こういうものをつけて、深い湖に放り込むとは、主イエスも何ともつれないことをおっしゃるものです。しかし、子供をつまずかせるというのは、それほどやってはいけないことなのです。


今日は、子供たちに学べと言うメッセージをお話ししました。是非子供たちのようにまっすぐな心を持ち、謙遜になっていただきたいと思います。

一つおもしろい教訓をお話ししましょう。それは「自分は世界で最も謙遜だ」と思うなと言うことです。アメリカのある説教者は本当に謙遜な人でしたが、自分が世界で最も謙遜だと思い、「僕の中の僕」と自分を呼んでいました。しかし、実はこのことばを他人が使うことを絶対に許さなかったそうです。これでは本末転倒になってしまいます。

皆さんも、高ぶりの要素や子供につまずきを与えるような要因があるようでしたら、すぐにでも取り除いて下さい。そして幼子のような謙遜な心を持って、キリスト者としての人生を送って下さい。


Editied and written by K. Ohta on 980510