礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年5月17日

「マリヤもその中に」

竿代 照夫 牧師

使徒の働き 1章6〜14節

中心聖句

 14この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

14節

教訓:心を合わせ、謙虚な姿勢で、焦点の定まった祈りをする


導入

2週間後はペンテコステです。ペンテコステ(5旬節)は、キリスト教にとってクリスマスやイースターと並ぶ重要な節期です。しかし、この二つと比べますと、ペンテコステは一般の方はほとんどその存在も知らない、地味な存在だといえます。

しかし、ペンテコステは教会の誕生日とも言える日であり、本来なら花を教会に飾って、盛大にお祝いしても良いような日です。約2000年前のこの日、使徒やイエスを信じる人たち一人一人に天から聖霊(三位一体=父・子・聖霊の一つ)が臨まれたのです。


主イエスの復活の後からペンテコステまで、何が起こったか聖書をよく見てみましょう。復活後主イエスは、ご自身が復活したと何回か語っておられます。これは、主が確かに蘇られたと言うことを弟子たちに強く確認するためだったと思われます。その後40日目に、主は弟子たちに言葉を残されてから、天に昇られました。そのときの言葉は、「エルサレムに留まって、来るべき方を待ち望め」と言うものでした。

そしてさらにその10日後のペンテコステの日(つまりイースター後50日目=5旬目、「ペント」は5を表す、例・ペンタゴン、ペントース)、弟子たちやイエスを信じる者に聖霊が下られたのです。

このペンテコステ直前の10日間、弟子たちは何をしていたのでしょうか。彼らはただぶらぶらと遊んでいたわけではありません。彼らは集まってお祈りをしていたのです。13節に、彼らがエルサレムに戻ると、「泊まっている屋上の間」に集まって祈っていたと書いてあります。ここは、おそらく最後の晩餐や、十字架の後など様々な機会に弟子たちが集まっていたたまり場だったと思われます。彼らはほとんどがガリラヤの出であったので、エルサレムに行ったときの居留地としてこの場所を使っていたのでしょう。ここでは、イスカリオテのユダを除く11人の使徒、イエスの母マリヤを含む婦人たち、そしてイエスの兄弟などが集まって祈っていました。


彼らは一体何の目的で祈っていたのでしょう。それは4〜5節にあるイエスの言葉に従い、やがて訪れるであろう「聖霊のバプテスマ」を受けるためでした。この「聖霊のバプテスマ」は、イエスが世に登場する以前からすでにバプテスマのヨハネによって預言されていたことです(ルカ3:16)。ここでヨハネは、来るべきキリストは「聖霊と火のバプテスマ」を与えると預言していました。この「聖霊と火のバプテスマ」というのは、本物の火ではなく聖霊が火のように下られ、深い霊的経験をすると言うことを示しています。また「火」は、罪や汚れを焼き尽くして「きよめる」と言う意味合いを併せ持っています。

同様の内容は、イエスご自身によっても語られております(ルカ24:49)。ここでは、「力」と言うことが強調されています。使徒の働き1:8においても、「力」についての言及があります。この力はどの様な働きをするものでしょうか。それは、将来使徒たちが行う世界各地への宣教を実行する「力」なのです。つまり、ペンテコステで下られた聖霊が使徒たちに与えられた力というのは、世界の人々に主イエスの福音を伝えるために必要なものだったのです。

力を与えられた証拠に、このペンテコステを境に、弟子たちがそれまでのつまらない競争心や嫉妬心から解放され、真に神に奉仕する者へと変えられていきました。彼らが真剣に祈り求めた理由の一つは、彼ら自身その弱さや不完全さを痛感していたからに他なりません。ここから学ぶことは何でしょうか?それは、聖霊の満たしなくしては、力強い証や宣教をすることができない、と言うことなのです。


14節で祈っている彼らの姿勢に、一つ大事なことを学ぶことが出来ます。それは「祈りの姿勢」についてです。

ここで彼らに学ぶ祈りの姿勢についてまとめてみましょう。3つのポイントがあります。

1)継続した祈り

彼らは、聖霊を得るまで継続して祈り続けました。せっかく祈り始めても、途中で止めてしまっては、何にもなりません。

2)熱心に、また祈りに専心する

彼らの祈りは、散漫なものではなく、「どうぞ私たちを聖霊で満たして下さい」という集中したものでした。この種の祈りは、実は絶えず私たちの祈りの中心になければなりません。

3)心を一つにして祈る

彼らが祈り始めた頃は、聖書の文脈から思いますに、決して彼らの心は一つではなかったのではないでしょうか。最初は、彼らの間に反目やねたみ、競争心があったと思われます。これが10日間という長い期間祈り続ける間に、徐々に心が一つにされていったのです。

わたしは、この間、彼らが互いに悔い改め、お互いのその罪汚れの告白を行ったのではないかと思っています。

多くの信仰回復運動(リバイバル)は、実はまずクリスチャン同士の悔い改めから始まっている事が示されています。お互いにその心の問題や、わだかまりなどを告白し、心から悔い改めるという個人的な信仰の回復が、やがて外側への宣教に広がっていったわけです。

このように、クリスチャン同士で真実に悔い改めの告白をすると言うことは、大切なことです。


さて、今日の本題は、「マリヤもその中に」と言うものです。14節にその記述がありますが、ここでは多少変な表現が用いられています。それはマリヤも「婦人」であるのに、わざわざ「婦人たちやイエスの母マリヤ」と言うような書き方がされている点です。これは、この祈りの群の中にマリヤがいたことを、はっきりと強調するためになされた表現です。つまり、この「や」は単なる並置の「や」ではなく、強調の意味を持っていると言えるのです。

マリヤは、カトリックでは大変重要で神聖な存在として扱われています。カトリックではマリヤは罪のない人という捉え方をされており、その意味で一種神格化されるほどの存在です。私たちは、これほどマリヤを神格視する必要はないと思いますが、それでもマリヤがイエス様の母であり、ある意味で特別な人物であることは、否定できません。

14節には、イエスの兄弟たちも祈りに加わっていたと書いてあります。主イエスの兄弟たちは、当初主イエスをキリストであるとは信じていませんでした。ある意味で、「兄さんはひとりだけ家を勝手に出て行いてずるい」ぐらいに思っていたのではないでしょうか。彼らがイエス様を信じるようになったきっかけは、コリント人への手紙第一15:9にありますように、十字架にかかったイエスが、兄弟であるヤコブの前に現れたことです。このことが、彼らがイエス様がキリストであると言うことを信じさせるに至ったのです。つまり、主イエスの兄弟たちは、信者になりたての者だったわけです。

これに対して、母マリヤはずっと以前から主イエスをキリストであると信じていました。この意味で、マリヤは最古の信者と言っても良いかも知れません。そのマリヤも、信者に成り立ての兄弟たちと同じ場で、祈りに加わっていたのです。そして、おそらくは他の使徒たちと同じように、悔い改めの告白をしたのでしょう。

歴史上一番最初の信者ですら、こういう悔い改めの祈りの中に入って真剣に祈らなければ、聖霊を受けることが出来ないのです。つまり、本当の意味での謙遜の気持ちを持って、真実に祈り合い続けることが、非常に大切なことなのです。

「わたしは信仰歴も長いし、これまでに随分成長してきたものだ」、と言うようなことを思った瞬間、聖霊は去っていってしまわれます。また、どこまでも成長したように思っても、何度でも聖霊に満たされ、さらに成長することが起きるものなのです。

皆さんも、是非このマリヤのように、謙虚にへりくだって祈りに加わりましょう。そして、聖霊の満たしを求めた、焦点の定まった祈りを続けましょう。

Editied and written by K. Ohta on 980520