礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年5月24日

「新しい霊を」

竿代 照夫 牧師

エゼキエル書 36章22〜32節

中心聖句

 26あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

 27わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。

26〜27節

教訓:強制でなく、主を愛することで律法を喜ぶ


導入

丁度2年ぐらい前ですが、アメリカでの学びを終えまして、第5期の奉仕のために、ケニアへ向かう途中、ロンドンに、2日間立ち寄りました。ロンドンに行ったならば、是非、ウェスレー・チャペルとウェスレーが回心したと言われるアルダース・ゲートに行って見たいものだと思いました。探し廻って、やっとのことでアルダース・ゲートに着きました。

そこには、ウェスレーの回心の出来事を記した記念碑が建っていました。そして彼がアルダース・ゲートの集会で回心した時の様子を記した日記の1節が記されていました。私は、そこに、しばしたたずみ、お祈りの時を持ったことでありますが、そのウェスレーの回心記念日が丁度今日5月24日であります。

それと、ペンテコステを前にした時であります。そういったことを思いめぐらせながら、私たちは、「魂の回復」というテーマで、エゼキエル書から学んでみたいと思います。


エゼキエル書の36章22、25〜32節をもう1度、お読み致します。

この預言をしたエゼキエルは、預言者であり、イエスが生まれる約600年くらい前の人物です。当時、イスラエル民族は、大きな試練にぶつかっていました。バビロン帝国によって、イスラエルは、滅ぼされてしまいました。そして、イスラエル民族が再び立ち上がれないよう、反逆出来ないようにするため、何回かに分けて、バビロンへ連れて行かれてしまいました。紀元前597年に連れて行かれた中に、エゼキエルも混じっていました。

エゼキエルは、連れていかれたイスラエル民族の中にあって、神の啓示を与えられていました。そして、イスラエル民族に説教を始めたのです。2つのポイントがありました。

1)現在のこういう状況は、犯してきた罪の結果である。悔改めよ。(裁きのメッセージ)

2)しかし、絶望することはない。神はもう1度イスラエル民族は回復させて下さる。(希望のメッセージ)

今読んだ個所は、2つ目の”希望のメッセージ”の部分であり、神がこれから民族を回復させる、ということであります。しかし、大切なことは、単に、それは民族がもう1度パレスチナに戻って、国家を再建するという外見上のことだけではなくして、彼らの心に新しい心、新しい霊が加えられて、霊的な刷新がなされるというのが、エゼキエルの預言でありました。

今日は、そのことから3つのことを申し上げたいと思います。が、その前に、22節に、その霊的回復の目的が述べられています。

「神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、・・・あなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。」(22節)

教会に来るのに多くの人は、自分が病気にかかっているとか、心に悩みを持っているとか、家庭や事業のことで戦いがあるなど自分に関することが動機になっていることが多いでしょう。それらのことは、神は当然ご存知です。しかし、神はそれが第一ではない、とおっしゃっています。わたし(神)の名のためであると言っています。

神は言っておられます。あなたがたの不業績によってわたしが恥を負っているのだと。だからしっかりしてもらいたいのだと。エゼキエルの預言の内容としては、3つのことが語られています。


1)きよい心が与えられる

25節に「わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ」とあります。偶像とは、当時の彼らにとって、肉欲を満たすため、大きな魅力を持ったものでした。ここで「あなたがたをきよめ」とあるのは、過去犯してきた罪を許してもらうということのみならず、人間的な罪の傾向からきよめてもらうということを言っています。「すべての」とあるのは、中途半端ではないということです。イエス様の十字架によってこのことは約束されているのです。

2)やわらかい心が与えられる

26節を見て下さい。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」今まで持っていなかった神を畏れる心、神様に従って行く心をあなたがたに植え付けましょうと言っています。石の心(頑固さ)を持っていると、神のみこころは、働くことが出来ません。主の語りかけに、常に耳を傾ける心を持ち続けたいものです。そして、それを主が与えて下さると書かれています。

3)律法を喜ぶ心が与えられる

27節を見て下さい。「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」これは、神のおきてを喜ぶ心が与えられる、ということです。

ここで「わたしのおきてに歩ませ・・・守り行わせ」とありますが、強制的に行わせるということではありません。神様のおきてを守り行なうことを、自然と喜ぶということです。今日3つのことを申し述べましたが、最も強調したいのは、この3番目の点です。

私たちは、規則と聞くと、学校の規則のように、出来れば守りたくないもの、逃れたいものと考えがちです。しかし、神様の聖霊が内に宿れば、神のおきてを守ることは、私たちの喜びとなっていくのです。これはイエス様によって実現したのです。

聖霊の内住がないと、律法主義的なクリスチャンになっていまいます。つまり、キリスト教というものが、「べき、べからず」の宗教になってしまうのです。決して、キリスト教は「べき、べからず」の宗教ではありません。喜んで神に従っていたら、気が付いたら神の律法に従っていた、というものなのです。


私たちは、聖霊が与えてくれた喜びに満たされ、神のおきてを心から喜び、従って行く、内側から喜びに満たされたクリスチャンになろうではありませんか。エゼキエルはこれを、神の約束だと語っています。主の約束をこの朝、捉えさせていただきましょう。神様の約束であるならば、努力して勝ち取るのではなく、感謝して受け取ればよいのです。

最後に1つの例話を紹介します。ある婦人には、きびしい主人がいて、毎朝、出勤する前に「今日これとこれをしなさい」という仕事リストを渡されていたそうです。主人が帰宅すると、そのリストをチェックするのですが、妻は言われた仕事が実行出来なかったそうです。しばらくして、その主人が死んで、婦人は再婚しました。ある日、掃除をしているとソファの下から、古いあの仕事リストが出て来ました。婦人は何気なくそのリストをチェックしてみたところ、今日ではすべての仕事が出来ていたことがわかりました。何に違いがあるのでしょうか。前の主人の時には、強制されていたため出来なかったのですが、新しい主人の時は、彼を愛する気持ちがあるために出来たそうです。

私たちが主を愛する心を聖霊によって与えられ、主の御心を行う者となりましょう。


Editied and written by N. Sakakibara on 980524