礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年5月31日

「皆が1つ所に集まった」

井川 正一郎 牧師

使徒の働き 2章1〜4、33〜39節

中心聖句

 1五旬節の日になって、みなが1つ所に集まっていた。

 4すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

1、4節

教訓:聖霊の満たしの目的


導入

ペンテコステの幸いな当日を迎えました。ペンテコステ、あるいは五旬節とは、”50日目のお祭り”という意味です。大麦の初穂の束を捧げる日から、数えて50日目に行われたということ、ギリシア語で、ペンテコスター・ヘーメラスという言葉がありますが、そこから出てきた言葉、”ペンテコステ”は、大麦の収穫の終わりを意味し、そして、いよいよこれから小麦の収穫へと切換えの時であります。ユダヤでは、過越しの祭り、仮庵(かりいお)の祭りとともに、三大祭りと言われています(レビ記23章5、15、34節参照)。

使徒の働き2章1節の「五旬節の日になって、みなが1つ所に集まっていた。」というのが今日の箇所であります。そして、この五旬節の時に起こった出来事というのは2つあります。

・聖霊降臨

・教会誕生

このうち、今日は1つ目の聖霊降臨という面から、特に、”聖霊降臨を待つために、みなが1つ所に集まっていた”ということに、心を注ぎ、思いを巡らしたく思っております。この”集まる”という言葉は、使徒の働きの特徴的な言葉でもあります。弟子たちにとって集まるということは大切なことでありました。


「みなが1つ所に集まっていた」この意味を3つの面から学んでみたいと思います。これが今日のメッセージの中心であります。

1)祝福の秘訣(鍵)である

その場に”集まる”ということによってだけ得られる祝福、恵みがあるというのであります。1章4節に「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」とあります。エルサレムにとどまっていることで得られる祝福、約束(聖霊降臨)があるというのです。そしてそれは、その場にとどまっていなければ、その祝福、約束はないのであります。

ここが祝福の鍵なのです。礼拝、伝道会、祈祷会など出席した者だけに与えられる恵みというのがあるのです。神様の法則であります。この法則を我らは心に留めておく必要があります。弟子たちは、五旬節にエルサレムを離れないで”集まって”いました。これがイエス様の約束、聖霊降臨の恵みの鍵でありました。

2)自発的なものである

自発的意志によるものである、ということです。エルサレムにとどまるというのは、主のご命令であったわけですが、集まるか否かは、弟子たちの自由意志に委ねられていました。

そもそも信仰は強制されるべきものではなく、義務でもありません。喜びをもって従うことが出来るか、ということです。神様が願っているのは、自発的な選択なのです。

もう少し分析してみますと、自発的ということは、心から求めていく、言い換えれば、罪から離れ、主への献身を含んだ霊的な要求ということではないかと思います。五旬節の出来事からそのような心の大切さを教えられるのです。

3)この場から、散っていくを目的としている

2章4節「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

1章8節「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

聖霊に満たされるということが目的ではありましたが、それだけが目的なのではありません。聖霊に満たされた後、弟子たちは、散っていった(他国のことばで話しだした)のです。真の目的はこれなのです。エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、イエス様の福音を証しするために散っていったのです。ほんとうの目的は”散っていく”ことです。

証しには、力と恵みが必要です。人間の生まれたままの力では成し得ません。今日、満たしていただきたく思います。そして、主の証人として、散っていって欲しいのです。


以上、今日は3つのことをお話しました。今日のメッセージを実際の生活へあてはめていきましょう。実生活への適用を考えてみます。

1)お互い1人ひとりが、神様の恵みが注がれるところへ身をおきましょう。

言い換えれば、神様の恵みが届くところへ身をおきましょう、ということです。そのために、悔改め、聖潔を求め、それを受けましょう。

2)私の側(そば)にいる人への心がどういうものかを考え、側にいる人への証しを出発点(スタート)としましょう。

「地の果て」とはどこでしょう。私が考えますに、地球を反対に1周すると、実は、隣の人が1番遠いのです。1番そばにいる人が1番遠いのです。1番そばにいる人が、1番やっかいな、難しい関係にある場合が多いのです。親子、兄弟、夫婦、職場、学校、・・・。近いからこそ、難しいことを知らされます。

私は小さい頃、神楽坂に住んでいました。よく縁日に出掛けました。小学校2、3年の頃、縁日に行って、金魚すくいをやって、2匹、取ることが出来ました。翌日も、2匹取れました。この4匹を水槽に入れ、飼うことにしました。半年が過ぎ、4匹の金魚はうまくいっていました。そこで、また縁日へ行ってもう1匹取れたので、4匹の中に入れました。すると、何と、翌日、5匹とも死んでしまったのです。親が言うには、新しい金魚を入れると、こういうことはよくあるのだそうです。

長い間うまくやってきたとしても、突然、予期しない、新しい人(事柄)がは入ってくると、しばしば、私たちの心は難しくなり、また、揺さ振られやすいものなのです。私たちは、どういう心を持っているでしょう。散っていく前に、側(そば)の人間、側の出来事に対して、私たちの心は試されているのです。

今日、五旬節の日に我らみんなが同じ所に集まっています。聖霊の満たしをいただきましょう。集まっているからこそいただく恵みがあります。聖霊を受け、力と恵みに満ちた器となることが約束されています。何のために?散っていくためにです。地の果てまで、とありますが、まず側(そば)の人からスタートしましょう。今日満たされて立ち上がりましょう。「みなが1つ所に集まっていた。」これが、今日ペンテコステのメッセージであります。


Editied and written by N. Sakakibara on 980531