礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年6月7日

「多くの証人に囲まれて」

竿代 照夫 牧師

ヘブル人への手紙 12章1、2節

中心聖句

 1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

1、2節

教訓:信仰の先達たちが見守る私たちの信仰生活


導入

今日は、初代総理・前主牧も含め、50周年を迎える当教会の会員で昇天された諸兄姉の足跡を忍び、その信仰に倣う時として定められた召天者記念礼拝の日であります。

この記念集会は1977年から数えて23回になるそうです。わたしは以前この教会で副牧師をしておりましたが、しばらくして国外の宣教に出ましたので、そのいずれにも出ておりませんので、今回が初めてと言うことになります。

ここにそれらの方々の写真がパネルとなって飾られています。これらのパネルは、先日井川先生と渡辺兄弟がせっせと並べておられたものですが、これを見まして私は一種圧倒される思いがいたしました。

と言いますのも、ここには私の信仰の先輩であり指導者であられた方々、また多くの集会を一緒に守り、共に労してきた方々が、パネルとなって並んでおられるからであります。

また私はここに並んでおられるほとんどの方の告別式には、国外におりましたので直接参加することは出来ませんでした。というわけで、今日はわたしに取りましても再会と偲びの時となったわけであります。

個人的感慨はこの辺にしておきまして、これらの方々を偲びその行ってきたことに倣おうというのがこの礼拝の趣旨であります。今日は、これに関しまして、ヘブル人の手紙からメッセージを取り次ぎたいと思います。


今日取り上げる聖書の箇所で語られているのは、信仰生活はマラソン競技のようなレースであり、我々はみなこのレースの参加していると言うことです。このレースは誰が先というようなことはなく、完走することが大切なレースです。そのゴールは、天の御国と言うことになるのですが、このレースを全うするために必要な大切なことがここに記されております。今日はこのことについて3つの角度から取り上げてみたいと思います。


1)観衆を意識して走る

1節に、「こういうわけで...」と言う言葉で始められております。普通「こういうわけで」と言う言葉でいきなり文章が始まることはありませんので、ここに書かれていない背景があることが判ります。

11章と言うところには、信仰を持って人生を走り抜いた信仰の巨人(ノア、アブラハム、モーセ、ヨシュア)の信仰列伝について記されています。冒頭の1節にはこのような証人たちが「雲のように取り巻いている」と書かれています。これは言い換えますと、もうすぐ始まるサッカーのワールドカップで、観客がスタジアムを埋め尽くしている状態をお考えになってみて下さい。そのような状況で、信仰の巨人たちや先人たちが私たちを眺めているわけです。

実際ここにも200人近くの方々のパネルが並んでおります。これらの方々も私たちのレースを見守っておられるのです。

つまり、私たちは一人だけで人生のレースを進めているわけではないのです。そこには常に、信仰の証人たちが声援を送っているのです。

これは大きな励ましでもあります。また同時に大きな、警戒でもあります。観客は大きな励ましをしてくれますが、悪いプレーにはブーイングと言うものもあるでしょう。

この部分でわたしが強調したいことは、信仰生活というマラソン競技には、常に信仰の証人が見守っていると言うことを、私たちはしっかりと意識しなければならないと言うことです。

この教会の先人たちの歩みを見ましても、一つ一つの営みが生ける神を信じて進んできたと言うほかはありません。主が私たちを導いて下さると言うことを100%信じて、人生を歩み続ける、これによって神は私たちを決して見捨てられず、導いて下さるのです。


2)捨てるべきものを捨てて走る

1節で、「一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて」と書かれております。陸上競技選手を良くご覧になった方はお気づきでしょうが、彼らはもうほとんど裸同然の格好をしております。つまり走るのに不必要な物は何一つ身につけていないのです。

ここでは具体的なイメージとして、おそらく古代ギリシャで行われたオリンピックのことが想定されているはずです。この時の競技は、女性は見ることが出来なかったそうです。その理由の一つには、競技者が丸裸で競技をしていたからだという説があります。つまり、当時はもっと徹底的に余分な物は取り払っていたわけです。

このような競技者に信仰者をなぞらえることには実は意味があります。それは、信仰のレースについてそれを進める者は、競技に不必要な者を全部捨ててしまいなさいと言う勧めなのです。

では何を取り除くかと言いますと、ここに書かれているのは、重荷とまとわりつく罪であります。

「重荷」と言いますのは、実に沢山の種類があるものです。これは言い換えれば私たちを悩ましている課題であります。これには例えますと、経済的なこと、健康、家族、人間関係、仕事上の問題などがあります。問題はただそれらの課題があるだけでなく、その課題について私たちが疲労困憊するほど考え悩んでしまうことにあります。端的に言いますと、思い煩い、と言うことになるでしょう。主イエス様は「思い煩うな、重荷はわたしが背負う」と語られました。また、空を飛ぶ鳥や野の花を見よとも語られました。世のことに気をもまずとも、信仰を第一にしてさえいれば、それらはみな加えられるのです。

実はわたしはケニヤでは、この「思い煩うな」と言う説教をしたことが実は一度もありません。と言いますのも、かの国は「何とかなる」と言う雰囲気で満ちた国だからです。季候も良いし、作物にも困らないし、何か困っても家族や親戚の誰かが助けてくれると言う恵まれた環境にあるからです。実際は、「もうこれ以上思い煩わないでいないように」と言うようメッセージをしたくなるほどのところなのです。

もう一つの捨てなければならないことは、「まとわりつく罪」というものです。このまとわりつく罪というのは、捨てようと思ってもからみついてなかなか離れない罪を指します。「明日から禁煙しよう」と決心した人が、いつまでも「明日から止めよう」と言って吸い続けるようなものです。このことばの元の意味は、「キャンプ地を取り巻く野獣が餌を何とかとろうとうろついている」と言うような感じです。

ケニヤの野生動物の中で一番しつこいのはハイエナです。この動物は病気で弱ったり、怪我で弱った獲物を最後まで追いつめ、必ず餌食にする本当にしつこい動物です。罪というのは、私たちにとって実にこういう存在なのです。

私たちは誰も、イエス・キリストの救いがなければ、このようなしつこい罪から逃れることは出来ません。もちろん罪を絶つという各個人の決断は重要なことですが、何より大切なのは決然たる祈りと信仰告白が大切なのです。

正しくない思いや、行動、習慣、これらをイエス・キリストへの信仰を持って捨て去ることが何より大切なことなのです。


3)イエス・キリストに目標を定め、脇目を振らず走る

競技者は観衆を意識しすぎると緊張しすぎるそうです。そのようなとき、集中力がとぎれ、最高の演技は出来ません。そこで常にどこか一点に集中する必要が出て参ります。

わたしたち、信仰のマラソンレースを行っている者たちは、どこに目を向けていけばよいのでしょう。それは2節に書かれてありますように、「信仰の創始者たるイエス・キリスト」です。

これに関してペテロの記事が参考になります。ペテロはガリラヤ湖で嵐に遭い船が沈みそうになりましたが、そのとき主イエスが湖の上を渡ってこられ、その窮地をお救いになりました。この時ペテロはイエス様と同じように水の上を歩きたいと思い、自分も早速歩いてみたのです。すると歩けたのですが、イエス様から目を離し風と波を見たとたん、湖に沈んでしまいました。


私たちは、この人生の長いマラソンレースを、主イエスから目を離さずに歩むことで、信仰の先輩たちと同じように天の冠を受けることが出来るのです。その足跡に学び、倣わせていただきましょう。

Editied and written by K. Ohta on 980607