礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年6月14日

「聖霊に満たされた良き人、バルナバ」

竿代 照夫 牧師

使徒の働き 11章19〜30節

中心聖句

 11彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人物であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。

11節

教訓:聖霊に満たされると言うこと、バルナバに学ぶ


導入

今週から2〜3回に渡って、ペンテコステにちなんで、聖書の中から聖霊に満たされた人々を取り上げてみたいと思います。

今日は、私も個人的に大変好きな人物なバルナバを取り上げます。まず、バルナバという人物の背景をまとめてみましょう。

バルナバはキプロス島の出身のレビ人(ユダヤ人の中で特別に神に献身する家系)で、その後エルサレムで最初のキリスト教会のメンバーの一人となります。この時、彼は自分の土地を教会にささげたとあります。

その後彼は、回心したサウロ(後のパウロ)をキリスト教会に導き、エルサレム教会の使節としてアンテオケの教会の建て上げに尽力しました。さらに、パウロとの離別の時まで、パウロと共に小アジアの宣教に大きな働きを行いました。


彼がどんな人物だったか一言でまとめよと言われましたら、心が広く寛大な人物だったと言うことが出来ると思います。彼にまつわる聖書の箇所をいくつか見て参りましょう。

先程も述べましたが、彼はエルサレムの教会に加わるとき、その所有地を教会にささげたと書いてあります(使徒4:36〜37)。この「与える」と言う姿勢は、彼の心の広さを表す特徴と見ることが出来ます。

私はケニヤで宣教師をしておりましたので、こういう地方の人々がどれほど土地を所有することに執着するか良く知っております。ケニヤでは、とにかく成功した人は土地を買い、その土地を持つことがその一生涯をも表すほど重要なこととして捉えられます。

私がケニヤで良くされた質問に、「ミスター竿代、あなたは日本でどのくらいの土地を持っているんですか?」というものがあります。私が土地を持っていないと答えますと、質問した人は何とも悲しそうな、同情に満ちた顔をしたものです。ケニヤでは、土地を持っていない人と言うのは、ほとんど人間ではないようなものとして捉えられるのです。

こういう風土が、エルサレム周辺にあったかは定かではありませんが、おそらく自分の土地をささげるというのは、そう易々と出来ることではなかったはずです。

しかし、バルナバは喜んで自分の土地を捧げ、そのことが他の教会員にも良い影響を与え、多くの人がすすんで捧げる恵みに与る様になったのです。

しかし、ここで一つ興味深い記事があるのを忘れてはなりません。この出来事の後、初代教会の役員選挙のようなものが行われたのですが、バルナバはその役員には入りませんでした。

彼はかなりの捧げものをし、教会に多大な貢献をしていたのですが、それをあくまで謙遜に行い、捧げたことすら忘れているような人物だったからです。このことは、捧げると言うことに対する大きな教訓といえましょう。


使徒の働き9章の27節には、彼が神の働きにより、回心直後のパウロをキリスト教会へ導いた事が書かれています。パウロはそれ以前教会迫害の最前線に立っていたユダヤ人でしたので、多くの人はパウロの回心を信用せず、スパイか何かしに来たのではないかと思っていました。

こういう四面楚歌の状況において、バルナバはパウロの実に良き理解者として働き、キリスト教会への仲介者として代え難い働きをしたのです。

バルナバは教会史の中でも地味な存在で、決して偉大な説教者ではなかったようです。しかし、彼の働きなくして、希有の説教者パウロという偉大なる器は、決して見いだされることはなかったのです。

バルナバのこの姿勢に、私たちは「受け入れること」の大切さを学ぶことが出来るのではないでしょうか。厳しい世の中を生き抜くには、イエス様の語られるように「鳩のように素直で、蛇のように狡猾でなければならない」のですが、こういう寛大さだけは失わないでいたいものです。


今日取り上げました11章では、バルナバの偏見を持たない寛大さを見ることが出来ます。

この当時のクリスチャンというものは、ほとんどが元ユダヤ人であったり、もしくはユダヤ教の求道者でありました。特にエルサレムの教会では、キリスト者になるためには、まず割礼をする事を含めてユダヤ人になることが必要で、それから初めてキリストの教えを学ぶことが出来るという考えが主流だったのです。

こういう状況の中、パウロはアンテオケでユダヤの背景を全く持たない非ユダヤ人に、いきなりキリストの福音を伝えるという大胆な実験を行ったのです。その結果、驚くべき事に、多くの異邦人がキリストの教えを信じるようになったのです。

こういう形で生まれたアンテオケの教会は、ある意味で「型破りの教会」でした。ここにエルサレムからバルナバは使節としてやってきたのです。そして、先入観なしに彼は「これも神の教会だ」と言ってこの働きを認めたのです。そして、驚くべき事に、この時歴史上初めて、彼らは「クリスチャン」と呼ばれるようになったのです。

この記事は、バルナバの先入観を持たない物事を受け入れる寛大な姿勢を良く表しています。もしこのようなことが行われず、彼が拒絶の姿勢を示していたら、キリスト教は今日ここまで大きな流れになっていなかったでしょう。この働きは極めて意義の大きなものだったと言うべきものです。

思いますに、現在の日本人に求められているのは、こういう「自分とは違った人を先入観なしに受け入れる」姿勢なのではないかと思います。小さい頃から私たちは、周囲の人々と同じように行動することばかりを求められ、ちょっとでも型破りの人物がいると、そういう人を何らかの形で排除しようとしてきたのではないでしょうか。

こういう姿勢が、日本を現在のような経済的行き詰まりに導いていってしまったのではないか、今の行き詰まりはこのことに対する挑戦ではないかと思えてなりません。


13章に移りますと、アンテオケの教会を牧していたバルナバとパウロが、神の導きによって小アジアへの宣教に旅立ったことが書かれています。これは現在で言いますと、主任牧師と筆頭の副牧師を宣教地に送り出すようなことですが、アンテオケの教会は惜しみなく送り出したと書いてあります。この時の表現は「バルナバとパウロ」と言う順番になっています。

ところが、46節になりますと、今度は「パウロとバルナバ」と言う具合に順序が逆転してしまっているのです。つまり、この時になると宣教地でパウロが実に有能な説教者であることが判り、もはやバルナバはパウロの同労者として働くことを選んでいたのです。

こう言うことは本当は大変難しいことです。言い換えれば、昨日までは部下だった人間が、自分の上役になることを認めるようなことだからです。

このようなことは、本当にきよめられた人物でないと出来ないことです。普通の人なら、嫉妬やねたみでその有能な人物をつぶしてしまうかも知れません。

バルナバは、神が人間一人一人に与えられた分というものをわきまえており、それ以上それ以下になることを望まず、自分の天分に安んじるところがあったのでしょう。

これらを一言でまとめて、冒頭の箇所のような、「良き人、りっぱな人物」という評価があったのです。つまりその立派さとは、彼の謙虚な姿勢、心の寛大さに基づくものなのです。


このようなバルナバの姿勢は、一体どこから来たのでしょう。一つにはその生い立ちや、もって生まれた性格というものがあるかも知れません。しかし、その最も重要なポイントは、彼が「聖霊に満たされていたから」と言うことなのです。人間は聖霊に満たされたとき、その人の持つ独自の柔らかさというものがでてくるのです。

聖霊に満たされるというのは、自己中心のものの考え方から、神中心の考え方に心のあり方を変えることなのです。

もって生まれた性格というのは、なかなか変わるものではありません。しかし、性格上の問題が長い人生の中で誰かに指摘されたり、また自分自身で気付いて直そうと思ったりする機会があるものです。

そういう時、心静かに私の心を変えて下さいと神に祈り、聖霊に心を明け渡して主を信じ、そこから継続的に主に頼り続けることが大切なのです。

このような聖霊に満たされる経験を一人一人がすることが、冒頭の聖句にあるバルナバの行いのように、さらに多くの人が主に導かれることにつながるのです。


Editied and written by K. Ohta on 980616