礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年7月5日

第1コリント書連講(1)

「神のものである教会」

竿代 照夫 牧師

コリント人への手紙第1 1章1〜9節

中心聖句

 2コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々ともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。

2節

教訓:教会の主は神


導入

先日恒励会と青年部の方々に頼まれまして、ケニヤでそれこそ毎日のように食べているトウモロコシの粉で作った食べ物を食べる会を開きました。「おいしい!」とか「おいしい気がする(!?)」とか、様々な反響がありましたが、ケニヤではどんなごちそうよりも、これを食べないと食事をした気がしないというようなものなのです。

今日から教会のメッセージも、これまでの特別食のような内容から少し変わりまして、日常食べる普通食のような内容に移って参ります。こういう日常の糧を食べることによって、丈夫な体ができあがっていくものです。

今日から第1コリントの連講を開始いたします。その理由には二つありますが、第1は、コリント教会の置かれている状況が、現在の日本にある我々の教会に良く似ているからであります。また、もう一つは先頃私がコリント人への手紙に関する本を書いた、という個人的なものであります。


まず、コリントという土地とその教会について背景をご説明いたしましょう。このOHPシートに書かれておりますように〔下記図参照〕、コリントはギリシャの半島の付け根に位置した港湾都市です。このような地理的状況にあったために、この場所は物流・交易の中心地として大変栄えた商業都市でした。また、多くの外国人が集い、まれにみる国際都市でもありました。さらに、ギリシャ神話の影響を強く受け、異教的な雰囲気が支配しており、遊興が盛んな一方で、道徳的な退廃も見られた都市でした。今のパチンコの原点である、コリントゲームはこの場所で生み出されたゲームです。

コリント教会は、パウロの二回目の伝道旅行〔ヨーロッパへの伝道、赤線で示してある〕の際に、ピリピ、テサロニケ、ベレヤなどの教会に次いで建てあげられた教会です。パウロは他の場所にはあまり長く滞留していませんでしたが、このコリントには実に1年半もの間滞在していました。これは短期間で伝道を済ませてきたパウロにとっては、例外的に長い期間です。

と言うのも、このコリントでの伝道は、かのパウロを持ってしても実に困難だったからです。実際パウロは一度この地での伝道をあきらめ、足についたコリントの塵を落として別の場所に移ろうとしました。しかし、神の啓示により留まり、教会建設にやっとの事でこぎ着けたのです。

教会が出来た後も、コリントの様々な悪い環境によって教会に問題がもたらされました。第3回の伝道旅行の際、パウロはコリントに面したアジアの対岸地域、エペソに3年ほど滞在していました。この間、コリントの教会が持つ様々な問題が彼のもとに知らされ、それに対応してパウロは手紙をコリントの教会に送りましたその内の一つが、このコリント人への手紙第1です。以上がコリント教会のだいたいの背景となります。


冒頭の箇所は、コリント教会に当てたパウロの書簡の宛先に当たる部分です。この宛先の箇所自体にも、教会とは何なのかと言うことが端的に込められています。今日はこの点を、5つの角度から見て参りましょう。


1)教会は神に属するもの

新約聖書全体を通じ、教会の所有者が明示されている場合は、人間ではなく必ず神・イエスキリストになっています。つまり、それ以外所有者はいないのです。教会という語のギリシャ語は「エクレーシア」と言いますが、このことばの元々の意味は、「呼び集められたもの」と言うものです。つまり神の目的に応じて「呼び集められた人間の集合」が、「教会」なのであり、何人たりとも教会の所有者になり得ないのです。

私たちは教会への愛着のあまり、こういう事を忘れがちなのではないでしょうか?例えば愛着を持って語られる「私たちの教会」と言う言い方にも、何度も話している内にまるで教会が自分たちの所有物であるかのように錯覚していってしまうことがあります。こういう状態が続きますと、何か教会に問題が生じたときに、その対応の仕方がおかしな事になってしまいます。つまり、人間的尺度から教会のあり方を批判するようになってくるのです。

しかし、こういう場面でも、神が教会の所有者であることがはっきりしていれば、そういう批判が神に向けられていることに気付くはずです。教会が神の属することを忘れてはなりません。


2)教会は地域的なものである

冒頭の箇所では、「コリントにある教会」と言う言われ方をしています。これは教会が、その存在する地域に根ざした存在であるべき事を、物語っています。

今私たちの教会は、広尾という土地にありますが、この場所・地域にこの協会が何を提供できるかを考える必要があるように思います。その一環として、この夏この地域の方々に向けて教会学校を開くなどの試みを初めてみたいと思っております。是非お祈りとともにご協力下さい。

私たちの教会は、また首都圏という地域にあります。このようなことも踏まえて、今後のこの教会のあるべき姿を皆様と考えて参りたいと思います。


3)教会は連帯的な存在である

「至る所で呼び求めているすべての人々ともに、」と言う言い方がされていますが、これは教会が他と独立な孤立した存在ではなく、他の教会とみえない形であっても連帯していることを表しています。

私たちの教会だけのことを考えておりますと、何か萎縮してしまいがちですが、キリスト教教会は全世界の教会の群と連帯しており、その一部として存在していることを忘れてはなりません。つまり私たちは、何億、何十億という世界中のクリスチャンと連帯関係にあるのです。これは私たちにとって大きな励ましです。

また、my churchismと言うような自分の教会のことしか考えないような人々になってはなりません。世界の教会の人を念頭に置いてすすむことが大切です。

例えば、私がアフリカにおりました頃に、いくつかの悲しいニュースがありました。それは、ルワンダなどで行われた大量虐殺事件です。この事件の時に、多くの人々が教会に逃れました。教会なら殺されないだろうと思ったからでした。ところが、教会に人々が集まると、敵対する部族の人間が機関銃でそれらの人々を虐殺したのです。その後の様子を取材したジャーナリストの話では、あまりの悲惨な状況から、その死臭が脳裏にこびりついてなかなか離れないと語っていました。

私たちは、このような出来事を人ごとのようにとってはいけません。こういう方々と連帯していることを、忘れてはならないのです。実際に教会活動が困難な土地や、宣教地に行ってみることも良いことです。また、常に世界レベルの視野で、キリスト教会を見ていただきたいものです。


4)教会は「聖徒たち」によって構成されるものである

2節では、「聖徒たちの教会」と書かれています。「聖」と言う言葉は、もともと「区別をする」と言う意味を持つ言葉です。言い換えれば、「神のご用のために区別されている」ものを「聖なるもの」とよぶのです。と言うわけで、教会は「主の目的のために世から取り分けられた人々の集合」と言うことになるわけです。

ここでは、教会を構成する人々の内面的なきよさに焦点が当てられています。実は、「コリント教会員」というのは、必ずしも「聖なる人々」ではなかったのです。

冒頭の背景でも言いましたが、コリントは不道徳が蔓延していた土地で、それが分派や、不道徳などの形を取って、どうしても教会に入り込んできてしまいました。例えば、ある教会員は、聖宣に用いる葡萄酒で酔っぱらったり、またある教会員は自分の娘と同棲するようなことをしていたようです。また、金銭面のトラブルで、教会員間で訴訟があったりしたようです。これから判りますように、パウロの語りかけである「聖い人々へ」と言う言い方はかなり矛盾したものなのです。

こういう教会を取り巻くコリントの状況は、現在の日本や東京に良く似ているのではないでしょうか。

何故パウロは「聖い人々」などという矛盾した呼びかけをしたのでしょう。それは2つほど理由があります。まず初めに、これからの変貌に期待を込めていると言うことであり、さらには彼らがとりあえずは神に従うという点で信仰の第一歩は踏み出していたからです。

このような信仰の第一歩は、難しい言葉で「初事的きよめ」といいます。例えば、私がこのハンカチを道に落としたと言うことをお考え下さい。このハンカチは私に属するものです。ハンカチはここでは教会員を象徴し、その場合の持ち主である私はのたとえです。

落とした私のハンカチを、誰か別の人が拾って、自分の靴を拭くのに使った場面を考えてみて下さい。ハンカチは汚れて泥だらけです。ハンカチを探していた私は、その人が自分のハンカチを持っていることに、しばらくして気がつきました。そしてその人に「ハンカチを返してくれ」と頼み、返してもらいました。持ち主は自分のものが帰ってきて、良かった良かったと喜びます。これが初事的きよめです。

しかし、そのハンカチは泥だらけで汚れていますので、持ち主の私はそれで顔を拭くことはありません。その前に洗濯し、さらに汚れを漂白したりするでしょう。汚れたハンカチは洗濯してきれいにしてから、初めて主に用いられるようになるのです。

コリントの教会は、この「洗濯」前の状態にあります。本当に神に用いられるためには、もう一歩神に扱われて、聖くならなければなりません。このような御業が、私たちの教会にもなされるように祈りましょう


5)教会は世に遣わされた存在である

ナチスドイツには、ゲットーという収容所がありました。もし教会が、この世と袂を分かって、教会内部だけで悩み、喜んでいるようでは、教会は現代のゲットーになってしまいます。教会はゲットーではありません

ヨハネの福音書17章14〜18節には、世から隔離されたものの集まりとしての教会を望んではならないこと、教会が世に遣わされている事が書かれています。

これに関連した話で、ある教会では、教会に入る人に「お帰りなさい」、教会から出かけていく人に「行ってらっしゃい」というところがあるようです。こういう事はたまには言ってみたいものです。

教会が世に遣わされている理由は何でしょうか?それは教会が世にあって、「地の塩、世の光」となることです。「地の塩」とは悪に妥協しない姿勢を意味しています。つまり「悪いこと」にはNoとはっきりいうことです。こういう事が今の日本には特に大事なのではないでしょうか。「世の光」とはキリストの愛を具体的な行いや言葉で示していくことです。

この教会が世にあって地の塩、世の光になることが出来るよう、持ち主である神様に祈って参りましょう。


Editied and written by K. Ohta on 980706