礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年7月12日

第1コリント書連講(2)

「人間崇拝の危険」

竿代 照夫 牧師

コリント人への手紙第1 1章10〜17節

中心聖句

 13キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。

13節

教訓:人間を崇拝するな


導入

先週から第1コリントの連講を始めました。一貫したテーマとしては、「教会とは何か?」「教会とはどうあるべきか?」と言うことに焦点を当てております。

今日は冒頭の13節が中心聖句でありまして、このことばが私たちにもたらす問いかけを取り上げたいと思います。今日の内容は先週の内容「教会は神のもの」のいわば裏返しのようなもので、もし教会が人間主体になっていったらどうなるかというお話です。


1)人間崇拝は、分派・派閥争いを教会内にもたらす

11節でパウロは、コリント教会に分派問題が起きたことを取り上げています。当時アジア〔今のトルコ〕のエペソという所にいたパウロが、この問題を知ったのはクロエと言う女性からでした。

分派争いは、「亀裂」という意味も持ちます。これは本来一つであるべきものが、分かれていることを意味しております。例えばこのコップにひびが入ったとしましょう。そうしますとこのコップの持つ本来の役割が果たせなくなるのです。このように、亀裂を意味する分派争いは、キリスト教会の機能が発揮できない状態であるといえます。

ここで、コリント教会における派閥争いをまとめてみましょう。この図に示しますように、当時のコリント教会は4つの派閥に分かれていたようです。

まず第1の派閥は、「パウロ派」と呼ぶべき人々であり、これらの人々はパウロがこの教会を建てあげたときからの信者だったと思われます。パウロ派コリントで異邦人伝道に大きな成果を上げたという記録がありますので、おそらくこれらの人々は多くが非ユダヤ人だったのではないかと思われます。この派の人々は、おそらく問題が起きる度に、「パウロならこうしていた」とか「パウロならこうだったのに」とか昔を懐古して言っていたものと思われます。パウロ派これらの人々に対し、自分を神格化するなと警鐘を鳴らしています。

第2の派閥は、「アポロ派」と言うべきものです。アポロという人は、学術都市であったエジプトのアレキサンドリア出身のユダヤ人で、聖書に関する知識はかなりすごいものがあったようです。また弁舌がさわやかであり、熱心で、しかも平信徒にその信仰の問題を指摘されたとき、速やかにそれに従った謙遜な人でもありました(使徒18章)。彼は、パウロの教会設立の後、コリント教会員たちにより深い恵みの経験を与えたのでした。アポロはかなりの知識人であったので、これに共感する人たちもインテリ層の若い人たちが多かったようです。

第3の派閥は、「ケパ派」と呼ばれる人たちです。「ケパ」というのは使徒ペテロのことです。ペテロはこのころエルサレムに留まっていましたが、一部のユダヤ出身クリスチャンは、エルサレム巡礼の時に彼の説教などを直接耳にしていた可能性があります。これらの人々は、ペテロがキリスト教会の総本山的なエルサレムの中心人物であったために、彼に大変心酔しておりました。こういう理由から、この派の人々はユダヤ出身者が多かったものと思われます。

第4の派閥は、「キリスト派」と呼ばれるものです。この派の人たちは他の派閥の人々の活動を批判し、教会はあくまでもキリストが中心であると言う主張を持っていた人々です。それは正しいのですが、その中で彼ら自身ある種の派閥を作っていってしまうようになりました。

コリント教会では、この4つの派閥が醜い争いを繰り広げていたようです。例えば結婚に関する解釈、金銭にまつわるトラブル、不道徳な教会員に対する対応などで対立していたようです。こういう現状をパウロは、エペソにいて大変憂慮していました。


2)分派争いの原因は人間崇拝

このような醜い分派争いは、どうして教会に起きたのでしょう。その原因は一言で言えば、「人間を崇拝したこと」です。

「アイドル」と言う言葉は、皆さんよくご存じだと思います。私は最近のアイドルはどんな人なのかさっぱり判りませんから、名前は出しません。しかし、多くの人間が、自分にはない魅力を持ったアイドルと呼ばれる人をサポートし、信仰に近い共感をもつことは、例を出さなくても皆さんに納得していただけるでしょう。

この「アイドル」と言う言葉は、「偶像」と言う意味です。つまりアイドルをありがたがると言うことは、ある特定の人間を偶像として神格化し、崇拝することなのです。コリント教会にはこういう心が育っていたのです。

こういう事は、現在の教会にもあり得ることです。例えば、説教で恵まれたときに、「今日は恵まれました」と言う言い方をすることがありますが、これは説教者やその説教をほめているのであり、その背後の神様に焦点が行っていない言い方ともとれます。説教の芯は神以外であってはいけないのです。

人間を崇拝する心以外にも、コリント教会には、党派心、すなわち自分の思いを仲間を作ってその力で成し遂げたいと言う気持ちがありました。これは、クリスチャンが持っていなければいけない、神様と1:1で向き合って自分の意志で物事を決めると言う姿勢が失われていることを意味しています。このような姿勢が失われているとき、教会員一人一人の心は実はキリストに向いていないのです。


3)問題の克服法

コリント教会が直面したこのような問題は、どの様に克服していったらよいのでしょう。一言で言いますと、教会の中心はキリストであると言うことを一人一人が徹底して把握し、それを行動に現していくことなのです。

私たちは日頃、私たちが少しでもコリント教会の人々のような態度をとれば、そのときには本当にすべての営みがストップしてしまうと言うことが本当に判っているのでしょうか。私たちが今ここにあるのは、神の救い、導き、憐れみの故であり、それなくしては塵のような存在であると言うことを自覚する事がまず問題解決の第一歩になります。

次に、そのような認識を持ったら、それを自分のことだけでなく他の教会の人々に対しても持っていくことです。神に対するしっかりとした認識を持ち、これを他者に対しても持つことで、行動・言動にも変化が訪れます。

例えば、先ほど言いました「説教で恵まれた時」のコメントの仕方でも、単にその説教内容が良かったというのではなく、「説教を通じて神様の御愛が判りました」などのように、説教の背景にある神様が賛美されるような言い方に変わってくるのです。こういう事の積み重ねが、人間を崇拝する危険から私たちを守ってくれるのです。

教会外の日常生活でも、誰かにほめられたり評価された場合に、さりげなく神への賛美がその答えに入ってくるようになります。こういう事が、キリスト中心の生き方が、態度の現れると言うことなのです。

10節に書かれているように、教会全体が、この姿勢に徹底するのなら、教会は分派から守られ、キリストにある一致に達することが出来ます。人間とは皆それぞれ個性を持ち、必ずしも考え方が一致するとは限りません。しかし、「キリストが中心である」という一点で一致をする事が出来るのが教会というものです。このような姿勢は、ローマ皇帝が迫害をしているキリスト教徒に対して言った「見よ。何故クリスチャンたちはあれほどまでにお互いを愛し合うことが出来るのか」と言う言葉に示されるように、教会外に対しても大変強いあかしになります。


最後に、ガラテヤ6章14節の「十字架以外誇るものはない」言葉のように、今週キリストを中心として生き方を送って下さい。そして心の中だけでなく、行動にも現していきましょう。

Editied and written by K. Ohta on 980713