礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年7月19日

第1コリント書連講(2)

『キリストだけを誇る』

竿代 照夫 牧師

第1コリント1章18〜31節

中心聖句

 13「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」

(18節)

教訓:キリストを誇れ


導入

 先週は、コリント教会に起きた派閥闘争をもとに、その原因についてお話しいたしました。折しも先週の選挙結果を受けて、これに類する活動が政治の中心で行われているようです。この永田町のようなことが、コリント教会にも起きていたわけです。

 この派閥闘争の大きな原因の一つは、人間の誇りでした。今回の内容はこの人間の誇りに関することです。


 今日取り上げる内容は二つに分けられますが、その前半の18〜25節では、人間の知恵と神の知恵について書かれています。そこには、人間が持って生まれた知恵だけでは決して神を知ることが出来ないと言うことが書かれています。何故かと言えば、神は一見すると愚かと思われるような形で、御自信の姿を示されるからです。

 コリント教会は、哲学の盛んだったギリシャのなかでも、特にアテネに近いアカデミックな雰囲気を有する都市でした。いわば、学問を持って誇りとしている地域、知恵を誇るような地域であったわけです。こういう地域に住んで居た教会員を有していたために、コリント教会の内部においても、いかに教養や知識があるかを誇る傾向があったのです。

 19節にはいるとパウロは、人間の知恵を誇ることがいかにむなしいかと言うことについて書いています。そして、人間の知恵だけでは、決して神を知ることが出来ないと言っています。

 人間は神の姿に似せられて創られたがゆえに、「知恵」を持つのです。しかし残念ながらその知恵は、人間が罪に堕落しているがゆえに、不完全なものにすぎません。

 これを喩えて言いますと、割れた鏡のようなものです。私たちの知恵は、壊れた鏡のようであり、無意味で使えないものではありませんが、物事の全体像を見るのには不十分なものなのです。神の本当の姿を、このような壊れた鏡から見ることは出来ません。

 ではどの様にして、人間は神を知ることが出来るのでしょうか?これは、神の側の働きかけ、つまり難しい言葉で言いますと「啓示」でしか達成できません。この啓示の最たるものが、「イエス・キリストの十字架」なのです。

 この啓示は非常に具体的ではっきりしたものです。我々の罪を、ひとり子を十字架につけることにより贖い、これを信じる者が神を知ることが出来る、と言う非常に単純なことです。

 しかし、ギリシャ哲学などを論じる人々にとって、この教えはあまりにも単純で、逆に理解しがたい事でした。彼らはそのような考えを愚かに思ってしまったのです。

 ここで十字架の示すメッセージについて、まとめてみたいと思います。それには二つのことが含まれます。すなわち、神は絶対的に正しいお方であると言うこと、そして神はひとり子をお与えになるほど、とことん我々をお愛しになれれているということです。

 神の力という言葉が冒頭の箇所に出て参ります。この力ということばは、ダイナマイトの語源にもなった言葉です。我々が絶望の淵にいるところを、力強く救い出して下さるのが、神の力なのです。しかし、滅びに至る人にとっては、単なる愚かなことにしか見えないのです。


26-31節の後半では、コリント教会員がどうあるべきかが書かれています。パウロはまず、コリント教会のメンバー構成に訴えました。つまり、コリント教会員がドングリの背比べをしていると語ったのです。

これはコリント教会員の多くが、当時のギリシャにおける奴隷階層であったことと無関係ではありません。コリント教会には、決して権力者や身分の高い人がいなかったわけではないようですが(26節)、多くは誰かの家で使用人として使われていた人々だったのです。もっとも奴隷といっても、すぐ頭に浮かぶような動物扱いされていたような形ではありません。例えば、寓話で有名なイソップも「教育奴隷」という奴隷でした。

28節ではもっとはっきりと、「この世の取るに足りない者」という言い方がされています。これは、家系をたどることが出来ない人々、つまりは「馬の骨」ということです。

しかし、パウロはそれだけで話を終えていません。神様はそのような「取るに足らない」人々をまずわざわざ選ばれ、救いに導かれたのです。何も持っていない人間を、神はあわれんでまず初めに救われたのです。

つまり、家系や財産・地位・学歴のようなことは、神の前にはどうでも良いことであり、肝心なことはコリントの教会員が、神の愛のゆえに救われた罪人であるということなのです。だから、家系や財産・地位・学歴のようなことで誇りに思うのは止めなさいとパウロは勧めているのです。

私たちも、家系や財産・地位・学歴などが教会の中においては何の意味も持たないことを良く理解しましょう。


では私たちは、何も誇ることが出来ないのでしょうか?私たちには唯一誇るべき事があります。それは。イエス・キリストご自身です。

神の知恵というのは、先程も述べましたとおり、決して人間の浅はかな知恵だけで理解することは出来ません。神の知恵は、キリストを捉えるという一点だけで自分のものにすることが出来るのです。また、神の知恵はこの世のどの様な賢者の知恵にもまさる、完全な知恵です。

キリストを捉えるとはどの様なことでしょうか?これはキリストがなして下さった贖いの業を、自分のこととして捉えることです。キリストの十字架を、自分の心の中に生きたかたちで受け入れることです。私たちは、この「心のキリスト」を誇ることが出来るのです。

パウロは、「誇るならキリストにあって誇れ」と語っています。彼はどの様なことを誇っていたのでしょう。それは3つあげることが出来ます。

まず第1に、「弱さ」を誇る、と語っています。これは、自分のダメな所を誇りに思うという逆説的な内容です。何故私たちは、自分のダメなところ、欠点を誇りに思うことが出来るのでしょう。それは私たちが「その弱さのゆえ」にキリストの救いにあずかり、しかもその弱さをキリストが覆っているからです。これは言い換えますと「霊的な開き直り」とも言うことが出来るでしょう。

第2に、パウロは自らの奉仕に対して良心的であったことを誇っています。これは、自分の奉仕に対してどん欲ではなく、多くを求めなかったことを指しています。

第3は、主に導かれた者たちです。これはコリントの教会員であり、ある時はエペソの教会員であったりいたします。

ここで注意していただきたいことは、これらの誇れることの中心が、イエス・キリストであるということです。もし私たちが、自分の持っている実績・経歴・家系・学歴・経済力・地位などの世的な内容を、みじんでも誇っているのでしたら、それを捨てなければなりません。


教会生活においても、世の誇りの基準を持ち込まないように気をつけましょう。それが教会を一致に導くのです。

さらに、クリスチャンであることをどうぞ誇りに感じていただき、教会の外でも誇りを持って自分がクリスチャンであることを宣言して下さい。

主にあって誇る、このことを教会でも家庭でも社会でも実践していきましょう。

Editied and written by K. Ohta on 980719