礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年7月26日

『住つくようにせよ』

井川 正一郎 牧師

詩篇37編1〜29節

中心聖句

 27「悪を離れて善を行い、いつまでも住つくようにせよ」

(27節)

教訓:心の中に善なることが住みつくようにする


導入

 私たちが良く自問する問いとして、「なぜ、悪者がこの世で栄え、正しい者が損をするのだろうか?」というものがあります。悪い行いをする者がこの世で栄えることに、心乱されることは、私たちばかりではなく、偉大なダビデにも起きたことでした。ダビデは、そのような葛藤から最終的には主への信頼を見いだし、解決の糸口を見つけていきました。詩篇73編では、「私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。」と悪者が最後には裁きを受けることを見て取ることが出来ました。

 このように信仰者は、主に頼り信頼し続けていくことで、どの様な局面でも決して真っ逆さまに落とされるようなことはなく、最後には「地を受け継ぐ」事ができるのです。この「地を受け継ぐ」という言葉は、詩篇37編で8節、12節、22節、29節、34節の5カ所に登場するキーワードです。

 今日は詩篇37編から、生活の中での具体的な教訓や心がけるべき事について、学んでみたいと思います。そのポイントは27節の「住みつくようにせよ」ということです。

 この「住みつくようにせよ」という内容は、これ以外にも3節と29節にも見られます。ここで注意していただきたいことは、そのすべてが命令調になっていることです。したがって、これは単なる勧めとかではなく、私たちが行わなければならないことなのです。

 「住みつく」とは、一体どこに住むのでしょうか?それは先ほどお話しした「受け継ぐべき約束の地」であり、正しい者の地であるといえます。しかし、27節をよく見ますと、「悪を離れて善を行え。そしてそこに住みつくようにせよ」と書かれております。従って、この「住みつく地」というのは、むしろ正しい心が自分の心に住みつくことを意味しているのではないでしょうか。それでは、どの様な正しいことを心に住つくようにしたらよいか、具体的にまとめてみたいと思います。


1)主を信頼する

 まず初めにあげられることは、主に信頼するということです。信頼するということは、どういう意味でしょうか?それは固くて絶対に動かないような確かなものに寄りかかることを意味しています。その固くて動かないものとは、主なる神様のことです。つまり、自分自身の心を神様という絶対に不動な存在にfix(固定)してしまうことを、主に信頼するというのです。

 詩篇25編15節にも「私の目は主に向かう」と書かれていますが、まさに単眼的に主のみを信頼し、寄りかかっていくことが大切です。これには、具体的に必要なことが二つあります。それは、主を自分の喜びとすること、もう一つは主が必ず事を成就されること、を信じることです。


2)主に委ねる

次に必要なことは何でしょうか?それは主に委ねきるということです。

私たちはこの世にあって様々な問題に出くわし、それに対して悩み、苦しみます。そういう難題があるときに、どうしたらよいか?それは一言で言ってしまえば、その難題課題をまず神の前に投げ出し、さらけ出して、祈ることです。神は私たちのその難題をご覧になって、その時点から働きを開始されます。

こうなりますと後は、7節、9節、34節に書かれていますように、主の前に静まり、主の働きを待ち望むことが第一になって参ります。神に働きがなされますと、後は我々がなすべき最善な事が適時に示されて参ります。

ですから、まず重荷を神様に委ね、主の為せる業を待つ事が大切なのです。その前に人間の知恵で何とかしようとして、いろいろ小細工をするから悩みが深くなるわけです。解決の道は、常に主が用意して下さいます。

3)悪を離れて善を行う

 37編の3節では、「主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。」と書かれています。これは私たちが日頃行わなければならないことを端的に現しています。つまり、悪や罪から身を離し、正しい道を地道に歩み続けることが大切です。

 私たちは、ついつい何故悪者ばかりが栄え、得をするのだろうと考えがちですが、正しい道を地道に歩いている人は、そういうことを思う必要が全くないのです。そういうことを考える以前に、神から与えられた使命を果たし続けていくことがまず一番大切なことなのです。

 「住みつくようにせよ」ということばは、「住まわせなさい」という言い方に比べて、かなり強い意味を持っています。これは、正しい行いに専心することを自分の血肉のように習慣化し、一体化せよという強い命令になっています。これを難しい言葉で言いますと「受肉」といいます。「受肉」はもともと、主イエスが人となられた事を意味して今すすが、さらにこれから、神の御性質が人間の中に一体化していくことをも現すようになりました。

 このようなことがなければ、本当の意味での成熟したクリスチャンになることはできません。つまり、いつまでも生まれついたままの品性でいてのではダメで、その品性が神様のものと置き換わっていくことが必要なのです。すなわち、本当に成熟したクリスチャンであるかは、この「住みついている」かどうかに関わっているわけであります。悪を排除し、正しいものを取り込んでいくようなポンプを、心に据え付けましょう。


4)腹を立てるな

最後に必要なことは何でしょうか?それは腹を立てないで冷静になるということです。7節8節にはおもにそのようなことが書かれています。ある者のの行いに腹を立てていると言うことは、ある意味で仕方がないことですが、その背景にもしその悪者に対するねたみがあるようなら、その心は悪者への道へ向かっていると言うことが出来ます。

こういう状態は、心に摩擦を生じ、その摩擦は表面をすり切らせ、熱を生じ、すり切れた表面から心の中に暴風雨をもたらすのです。そのような荒くれだった心では、神の品性が住みつくようには決してなりません。ではどうしたら腹が立たなくなるのでしょうか?

これはきよめの問題とも関わりますが、まず第一に腹を立てるような、心の根元的な問題を取り除くことが重要になります。悪者に対するねたみの根本はなんでしょうか?プライドでしょうか?それともコンプレックスでしょうか?それは本当に人様々でありましょう。しかし、各個人ごとに見ていくと、その根本は案外一つのことに限られるものです。それをまず取り除くことが必要だと言っているのです。


最後に実生活への適用を3つまとめてみます。

1)必要のないものを心から取り除く。そうして、神の品性が入り込んでくる余地を作ることです。

2)お互いに徳を高めるように協力しあう。一人だけでなく、複数の人間が協力することが良い効果を生みます。

3)今与えられている神の使命をやり遂げること。悪から離れて、無心に、一生懸命に善を行い続けることです。

Editied and written by K. Ohta on 980726