礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年8月2日

第1コリント書連講(4)

『十字架が中心』

竿代 照夫 牧師

第1コリント2章1〜9節

中心聖句

 2「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」

(2節)

教訓:十字架を中心とした信仰をもつ


導入

 コリント人への手紙から、教会とは何であるかについて学んでいますが、今日から第2章に入ります。今日取り上げる箇所では、イエス・キリストの十字架が我々クリスチャンの中心を占めるべきだということが記されています。この箇所でパウロは、「キリストの十字架」が神に支えられた信仰持つのにいかに重要であるかを、聖霊に基づいてコリント教会の人に説明しました。


 冒頭の聖句でパウロは、「十字架以外は、何も知らないことに決心した」と書いています。これは一見すると、「馬車馬」のような視野の狭い信仰に入ったかのようにみえます。「馬車馬」といいますのは、馬車の進む方向しか見えないように視野に被いがかけられた馬で、それによって御者の命令通り目的の方向にまっしぐらに進んでいくものです。

 しかし、パウロの真意は私たちが「馬車馬」の様になれと言っているわけではありません。これには以下のような背景があったのです。

 パウロはコリントで伝道する前に、ギリシャの学問都市であり中心都市であるアテネで伝道活動をしておりました。そこでパウロはある教訓を得たのであります。1節や3節に書かれているように、パウロはアテネで自分の弱さを感じ、アテネの学識者の前でいささかおののいていたようです。

 使徒業伝17章22節でも、アテネでの彼の伝道が弱気だったことを伺わせる節が見られます。彼は、アテネの学者たちの前でキリストの教えを伝えようとしました。彼のアテネでの説教は、ギリシャ神話に登場する神々の中で「知られざる神」というものについて語るという方法を採りました。これは、自分の知識に対するプライドが高く、また知識欲の旺盛なアテネ人へ教えを伝える非常に巧みな糸口であるといえます。しかし、やはりその大本が偶像の神々であったので、それをもとに話をすることには限界がありました。

 17章28節では、パウロはギリシャの詩人の引用を行っています。これもギリシャの教養人にアピールするための、彼なりの工夫であったわけです。つまりパウロの説教は、ギリシャの学問の中心地を意識した、かなり良く整えられた説教であったわけです。しかし、その成果は全くなかったわけではありませんが、芳しいものではありませんでした(17章32節)。これは優れた伝道者であったパウロにとっても、ある種の挫折であったわけです。

 パウロはこの経験を経た後に、コリントに入り伝道を行いました。従ってコリント教会に対しては、その教訓を生かした教え方をしていたのです。


キリストの十字架の意味を知り、十字架を中心にして生きる

 再び、第2章に戻りますが、ここではパウロはコリント教会の人間に、率直にアテネでの自分の心境をさらけ出しています。人間はなかなかこういう具合に、自分の弱みを見せられないものですが、パウロは実にあけすけにその心情をコリントの人たちに示しました。このパウロの率直さは彼の偉大さの一つであると言っても過言ではありません。この点は私たちも学ぶべきではないかと思います。

 パウロは自分の心情を率直に吐露しつつも、その中でコリント教会員たちにメッセージを送っています。といいますのも、この当時コリント教会員たちはお互いの教養を自慢しあい、自分の力量や才能を比べあっていたからです。パウロはそのようなコリント教会の人々に、自分を偉大な人間だと思ったり、見せかけたりするのは神の前に愚かなことであること、また人間の知恵にのみ頼ることがいかに空しいことかを、伝えたかったのです。その反面彼は、キリストの十字架の意味を知り、それを中心に生きることがどんなに素晴らしいかを、自分の経験をもとに語ったのです。

 コロサイ書2章3節にもありますように、主イエス・キリスト神のすばらしさが凝縮またはコンデンスした存在です。言い換えますと、キリストを知るということは、この世のすべての知識を得ることにも等しいと言えるのです。なぜなら、キリストには救いの歴史、手段、方法のすべてが凝縮されているからであります。ここで注意していただきたいのは、主イエス・キリストのことだけ知っていれば、後は何も勉強する必要がないということではありません。ここで言う知識とは、おもに救いに関わる知識の問題を指しているからです。

 そのキリストに関する事柄の中で、最も必要とされる知識は、「キリストが十字架につけられた」という事実の中にすべて含まれていると言っても過言ではありません。そこには、我々の罪が、

神のひとり子イエス・キリストの十字架を経なければならないほど深く重いものであること

またその十字架が我々が本来その罪の故に負わなければならない罰であること

さらに最愛の一人子を与えるほどに神が我々を愛して下さっていること

などが含まれているからです。

 十字架はまた、それによって私たちのすべての罪が解決された象徴でもあります。十字架で最後の時を迎えたイエス様は、「全てのことは終わった(It's finished.)」と語られました。これは私たちの罪全ての解決を意味しています。

 私はこのIt's finished.という言葉には思い出があります。私が高校生の頃、同級生が英語の授業中にキリストの十字架のところで出てくるIt's finished.を辞書で引いたら、「万事休す」という訳が出ていたが、これはキリストがもうダメだと言ったことを意味するのかという質問がありました。そのときの先生は、答えを知っていたはずですが、この中にクリスチャンの人はいますかと、暗に私の意見を求めたのです。私は手を挙げ、それなりの答えをいたしましたが、その時のことはずっと頭に引っかかっておりました。

 私が大学に進学して、外国語でギリシャ語を学び始めましたとき、真っ先にこのことを調べてみました。(新約聖書の原本は、ギリシャ語で書かれている。)そうしますと、その箇所に使われています言葉は、「物事を完成に導く」という動詞であり、自分で訳してみますと「今、完成に導かれた」というような内容であったのです。

 私はこの時、心がふるえる思いがいたしました。当時私は、自分の心にあるねたみなどの心で悩んでおりましたが、このことばの意味を知ったとき、その罪が本当に十字架によって張り付けにされ、解決されていたのだと言うことが判ったのです。もし皆さんの中で、心に問題があり、それを解決したいと願っておられる方がおられましたら、是非十字架を見上げて下さい。そこにはあなたの問題にしていることが、すでに張り付けにされているのです。

 パウロはこのような十字架の意味を、もちろん知っておりました。そしてその意義の深さを知るに及んで、十字架を中心におくことが何事にもまして大切であることを学んでいったのです。ピリピ3章3〜7節で、パウロは自分の誇るべき経歴や資質が、十字架の恵みの前では何の価値も持たないことを学んだと書いています。


信仰を心で受け止め、神に委ねる

 冒頭の箇所の「知らないことに決心した」というのは説教と言うより自分の決心を表す表現ですが、この中には私たちへの薦めの意味も込められています。私たちは何故聖書を読むのでしょう?それは恩寵の手段だからでしょうか。それもそうでしょうが、聖書の中には主イエス・キリストのことが書かれているから読むのです。また、神との交わりをするために、祈りまた集会にも出席するのです。我々の日常の全ての営みの中に、「キリストをもっと知る」ということに焦点を向けた姿勢があってもよいのではないでしょうか。

 パウロはまた、これを語るとき雄弁さにたよることはせず、聖霊と神の力によって語りました。正確に言うと4節にありますように、一言一言が聖霊に満たされるべく、祈りつつ語ったのであり、また、そのとき人間の知恵のみにささえられるのではなく、神の力によって支えられるように祈りつつ語ったのです。

 信仰は頭脳で合点することも必要ですが、心で受け止めることが一番大切です。信仰という行為は、自分の非力さを認めて神に頼る人間の行為ですが、パウロによればこの行為自体も人間の力だけで出来るものではなく、神の恵みによらなければならないのです。

 それは何故でしょうか?人間は疑い深く、信じないと言う性質を持っているからです。つまり、人間は神を信じると言うことすら、自分の力で出来ないのです。ではどの様にしたら信じられるのでしょうか?それは「信じられるようにして下さい」と神に祈り、委ねることです。そのようなとき、神が支えて下さり、信仰を持つことが出来るようになります。

 このような信仰の姿勢は、私たちを「頑張りの信仰」から救ってくれます。「頑張りの信仰」とは、「私たちはクリスチャンだからしっかりあかしをしなくっちゃ」とか「信仰をもたなくっちゃ」とかやたらに「くっちゃ」がつくのが特徴です。しかし、そのようにしていては、いつかは疲れてしまうものです。

 喩えて言いますと、もっとわかりやすいかも知れません。アメリカではクリスチャンには二通りの人がいると言われています。それは「モンキー・クリスチャン」と「キャット・クリスチャン」と呼ばれる人々です。猿は産まれた子供は、お母さんのおなかに落とされまいと必死にしがみついています。猫の場合は、クロネコヤマトのマークを見ればよくわかりますが、赤ちゃん猫はお母さんが首根っこをくわえて運びます。おわかりの通り前者が、「がんばらなくっちゃ」というクリスチャンで、後者が神に支えられて自然体で生きる理想的なクリスチャンの姿です。

 ですから皆さんにここで言いたいのは、信じるという営み自身も神様に支えられた恵みなのだということを理解して欲しいと言うことです。コリントの教会員たちも、初めはそのような信仰を持っていましたが、徐々に人間的な考えが入り込んできて、わけが分からない状態になってしまっていたのです。それを見たパウロは、自分の経験から語って、コリント教会員に最初の信仰に立ち返るように勧めたのです。

 自分でコントロールするというのではなく、本当に神を信じきって全てを委ねる信仰を持たせていただきましょう。そのような信仰は、この厳しい社会の中にあっても、あなた方に安定した心を与え、神の力がそこに現されるようになるのです。

Editied and written by K. Ohta on 980802