礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年8月9日

第1コリント書連講(5)

『聖霊による洞察力』

竿代 照夫 牧師

第1コリント2章6〜16節

中心聖句

 9まさしく、聖書に書いてあるとおりです。

「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛するもののために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

 10神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊は全てのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。

(2節)

教訓:聖霊は我々に必要十分な知恵と理解力を与えてくださる


導入

 先週ケニヤのナイロビでアメリカ大使館が爆破されると言う事件がありました。私もケニヤにおりました頃、ビザを入手する際などに良く訪れた場所であり、またすぐ近くに日本食のレストランがあり、なじみの深い場所でありましたので、大変なショックを受けました。このような事件が起きますことは、いかに現在の時代が先行きの判らない不透明な時代であるかを示しているのではないかと思います。

 このような先の読めない時代において人間に求められることは、「知恵」でありましょう。ただし本当に有効な知恵は、いわゆる人生経験や個人の思慮に基づくものではなく、神から与えられた知恵です。

 大昔の航海では、船乗りは沿岸の地形を見て船を進めるしかありませんでした。そのような航海では、大海に漕ぎ出すことは出来ません。大海の中では、羅針盤や天球の星を見ながら進むことが必要になるのです。我々の人生も、大海の中を進む船のようなものです。周りを見て進んでいるだけでは、わからないことが多いものです。このような人生において、天の羅針盤である神の導きに従っていくことが、最も安全で確実な方法になるのです。

 先週は、信仰というものが人間の知恵によって支えられるのではなく、神の知恵によって支えられるべきことが取り上げられました。つまり、聖霊の働きによってのみ、信仰は支えられるべきなのです。

 今週取り上げる箇所では、この聖霊が私たちに必要十分な知恵・理解力・洞察を与えてくださることを、学んでみたいと思います。


 まず、聖霊とはどの様なお方で、聖霊が与えてくださる知恵や理解力とはどの様なものか取り上げてみたいと思います。

1)聖霊はどの様な存在か?

 キリスト教において神は、父・み子(キリスト)・聖霊の3つの人格を持ち、これらは一体であると捉えられます(Trinity:三位一体)。聖霊はその中で「伝達者(communicater)」の役割を持つと考えられます。神は我々にとっては測りがたい存在であり、その意志を私たちにわかるように伝えてくださるのが聖霊と言うことになるのです(10〜12節)。例えば聖書は、聖霊の働きによって人間の言葉で書かれた書物であり、これを通じて我々は神のご計画やそのお考えを知ることが出来るのです。(これは逆に言えば、聖書の理解には聖霊の働きが必要であると言うことになります。)


2)聖霊がお与えくださる洞察とはいかなるものか?

 聖霊は私たちの心に宿って、神のご意志や計画を私たちが理解できるかたちでお示しになります(12節)。聖霊が私たちの心に宿る、このことを是非皆さんに理解していただきたいと思います。このことなくして、私たちが神を愛し、信じ、理解しようと言う気持ちが起きることはありません。

 次に、聖霊が私たちに与える知恵とはどの様なものか、取り上げてみたいと思います。

i)神の救い・救いの計画を理解する力(7節)

 7節には、「隠された奥義としての神の知恵」という表現が出て参ります。ここで言います「奥義」とは、武道の達人が獲得するような一部の人しか知ることの出来ない深い内容というものではありません。ここで言う「奥義」とは、今までは知らされていなかったことが、ベールが剥がされるように明らかになることを意味しています。特に7節で取り上げられている奥義とは、神のご計画としての「十字架の救い」のことであります(7〜9節、コロサイ1:26節)。

 十字架の救いに関する奥義というものには、二つの側面があります。まず第一は、その広さです。救いは神の選民であるユダヤ民族以外の異邦人にも開かれました。次に、その深さがあげられます。十字架以前は、人間は罪を犯しては、神の前に悔い改め、罪を犯しては悔い改めの連続でした。ところが聖霊の働きと十字架によってその罪は、現在・過去・未来にわたって全て徹底的に解決されたのです。

 聖霊は、信仰者の心に住まわれ、絶えず十字架の救いの意味を私たちに教え、導きいてくださる本当に宝のような存在なのです。

ii)神からの賜り物を理解する(12節)

 聖霊は、神の賜物ついてより深く理解する能力を私たちに与えてくださいます。私たちは、キリストの働きによって神の子となりました。聖霊の教えに従いますと、これにより神の所有物である全宇宙の創造物全てが、賜物として私たちの相続財産になったと言っても過言ではないのです。

 本田先生という方がアメリカに訪問された時の話です。アメリカの受け入れ先の先生が、本田先生をナイアガラの滝に案内し、「どうですこれほどの滝が私たちの国のものなのですよ」と自慢したそうです。これを聞いた本田先生は、「いや、この滝は私の父のものです。」と答えたそうです。言うまでもなく、ナイアガラの滝は父なる神のものであると言いたかったわけですが、これを聞いたアメリカの方は大変感心し、本田先生を紹介する文句として、「ナイアガラの滝の所有者来る」と言う文言をつけたそうです。

 こういう見方が出来るようになりますと、少し楽観的すぎるとおっしゃる方もおられましょうが、実に素晴らしい人生を送ることが出来るものです。是非今まで気付かなかった、素晴らしい財産が私たちに与えられていることを知りましょう。

iii)神の御心を理解する(15〜16節)

 15〜16節になりますと、「御霊を持つ人は全てのことをわきまえる」「私たちにはキリストの心がある」と書かれています。これは、聖霊を心も持つ人が全てを理解している、と言うことを意味しているわけではありません。むしろ、何がキリストが喜ばれ、何が悲しまれるかを感じ取る弁別力・洞察力が与えられると言うことを意味しているのです。この弁別力というものは、聖霊の促しに従っていく中で、発達し増強されて行くべきものなのです。

 ここで私たちに求められていることは、「御霊に従っていくこと」です。具体的には、聖書を御霊によって理解していくこと、人の語る言葉(時には小さい子供や、気にくわない人の何気ない一言もあるでしょう)を聖霊を通して理解すること、周囲の状況・環境を通じて示される神の道に従っていくこと、などがあげられましょう。聖霊に従い続けることにより、信仰生活が強められ、進歩していきます。

 逆にこれらのことを感じ取っていく鋭敏さが失われていくと、どんどん御霊の働きが弱くなってしまいます。あるカトリック教会を舞台にした、おそらく作り話でしょうが、こういう話があります。ある人は毎週教会にやってきてはその週やってきた悪事を神父さんに懺悔し、その帰りに100ドルを献金していきました。ある日、その人は懺悔が終わると、200ドルをおいていきました。不思議に思って神父が尋ねると、その人は「来週は用時があって休みますので、来週懺悔する分を今日お渡ししたのです。」と答えたそうです。心に働く聖霊の働きを無視し続けると、このようになってしまうこともあり得るのです。


 冒頭に示された9節の言葉のように、神は十字架の働きだけでなく、あらゆることにおいて人の想像を超えたものを、信仰者に用意しておられます。このことを良く理解させていただきましょう。

 信仰生活が長くなりますと、「信仰生活とはこのようなものだ」と言うような気持ちが出て来ますが、これが往々にして問題になります。アイザック・ニュートンは、我々がようやく知り得たことは、神の世界の大海原で子供が貝殻で水をすくったようなものだと語ったそうです。現状の状態に満足することなく、より深く大きな神の恵みを期待したいものです。

今週、皆様に新たな神のすばらしさを知っていただきたいと思います。

Editied and written by K. Ohta on 980809