礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年8月16日

第1コリント書連講(6)

『二種類のクリスチャン』

竿代 照夫 牧師

第1コリント3章1〜9節

中心聖句

 1さて、兄弟たちよ。私はあなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。

 2私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

 3あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

(1〜3節)

教訓:聖霊に属するクリスチャンになる


導入

 先週の礼拝の最後で、第一コリント2章9節のことばから、神様が私たちの想像を超えた働きをなされることを学びました。さて、皆さんは先週そのようなことを経験されたでしょうか?是非、神のみことばが我々の力であり、支えであることを知っていただきたいと思います。

 今週取り上げる箇所では、パウロがコリント教会員たちのあるべき姿について再び語り始めています。具体的には、コリント教会の分派争いについて再び取り上げております。ここでパウロは、コリント教会の分派争いの根本的な原因が、彼らが霊的でないと言う点であると言っています。

 そして、冒頭の1〜3節で、聖霊に属するクリスチャンと、肉に属するクリスチャン2種類があることについて言及しています。今日の教会においても、例えば「あの人は霊的だ」とか、「あの人は霊的でない」とか、この言い方がよく人を裁いたりする形で用いられたりします。しかし、この言い方はあくまで自分の信仰姿勢について吟味するときに用いられるべき言葉であり、人を裁くのに用いてはなりません。


 私たちはここで、聖書の言うところの霊的・肉的とは何であるかをはっきりさせておく必要があります。まず、「霊的でない、肉に属するクリスチャン」とはどの様な人なのかみてみましょう。

 1節には、コリント教会員が「霊的でない、肉に属するクリスチャン」であるとパウロは断定しています。実は、クリスチャンである以上、聖霊と無関係な人というのは存在しないのです(エペソ1:13、ローマ8:9、ガラテヤ3:2)。つまり、キリストを信じる全ての人に、聖霊が与えられ、その働きかけがあるのです。聖霊は、私たちの心の中にあって、神に対する愛を生み出しているお方です。神について知りたい、神を愛している、と言う状態がクリスチャンですから、クリスチャンには聖霊が必ず働きかけておられるのです。ではどうしてパウロは「霊的でない、肉に属する」と言う言い方をしたのでしょう。

 そもそもここで用いられている「属する」と言うギリシャ語(プリマトス)は、「〜の感化を受けている」と言う意味を持つ言葉です。したがって、「肉に属するクリスチャン」とは、「聖霊の感化が100%でなく、いまだに肉の感化があるクリスチャン」ということになります。ちょうど、このように水の入ったコップのようなものです。肉に属するクリスチャンは、このように一部しか水が入っていないのですが、聖霊に属するクリスチャンは、このように水で満たされています。もちろん聖霊はこのような物質的な存在ではありませんから、これは完全なたとえではありません。

 別のたとえでは、私が皆様のご家庭に訪問した場面をお考え下さい。通常客人として向かえられたとき、私が通されるのは客間ぐらいのものでしょう。寝室や冷蔵庫の中まで見せて下さいと言ったら、随分失礼な人間だと言うことになってしまいます。ところが、ある場合には「この家を自分の家のように使ってもらって良いですよ」と言うケースもあります。この場合、文字通り私はどこに行っても良いことになります。

 聖霊に属しているクリスチャンとは、聖霊をこのようなフリーパスの状態で心の中にお迎えしているクリスチャンのことなのです。これを難しく言いますと、「聖霊の全的感化」と言うことになるわけです。コリントの教会員は、一部聖霊の感化は受けていましたが、このような全的感化を受けていなかったのです。つまり、3節などで見られる「肉に属している」と言う表現は、「罪に属している部分がまだある」と言うことを意味しているのです。


 「肉に属するクリスチャン」にはいくつかの特徴があることが、パウロの語っていることの中に見ることができます。次にそれらをまとめてみましょう。

1)初歩の教えばかり学んでいる

パウロはコリント教会員に「乳を与えていた」と書いています。「」とは、伝道会で話すような初歩的なキリストに関する教えのことです。つまり、彼らは「いろは」しか学んでいなかったのです。これは彼らがキリスト以外の世的な世界観にどっぷり浸かっていたので、そこから抜け出すのが精一杯であったからなのでしょう。

2)堅い食べ物が食べられない

 パウロはまた、コリント教会員が「堅い食物」を食べることができないと言っています。これは1)と同じ様な内容で、「難しい内容の教え」を理解することができないと言うことです。

 しかし、もう一歩踏み込んで言えることは、彼らが神の愛に生きながら、成長して全生活にキリストの光が与えられ、日々円熟していくことができない、と言うことも言っているのです。つまり、自発的に聖書の学びをして、成長していくと言う大人の信仰姿勢がなく、いつも誰かに食べ物を口に運んでもらわなければならない人たちだったということなのです。ですから、私たちも礼拝に来て一週間を何とか乗り切る力を得る、ということだけでなく、日々自分自身で聖書を学び、成長することが必要なのです。

3)ねたみを持っている

 肉に属するクリスチャンは、同じレベルの人で少しだけ自分より上をいっている人に対して、ねたみを持つことがあります。レベルがはるかに上の人にこういうねたみが生じることはあまりありません。

 このねたみという問題は、実に現実的な問題です。クリスチャンになっても、また牧者や献身者、宣教師などのクリスチャンの働き人にとっても現れる問題です。人間である以上こういう感情が生じるものなのです。ポイントは、そのような感情が生じた後、どの様な形で聖霊の働きに委ね、解決を付けていくか(きよめ)にあるのです。

4)醜い口論をする

 醜い口論をすると言うことも、霊的でない人の特徴だとパウロは言っています。この口論とは「理性的な状態で行われるダイアログ」のことではありません。むしろ、このような「理性的な議論」はどの様な場面でも非常に大切なことです。ここで言う口論は、「相手に対して憎しみの感情を持ってなされる口論」を指します。議論をする場合には、相手に対する感情のほとばしりや、憎しみ、また相手をやっつけてしまおうという心を持ってはなりません。コリント教会員には残念ながら、そのような感情的な口論があったようです。

5)党派心を持っている

 最後の特徴は、すでに何度か取り上げています「党派心」です。この点については、以前(「キリストだけを誇る」参照)かなりお話をしましたので、今回はあまり申し上げません。ただ「党派心」には、自分の意見を自ら自分の責任ではっきりというのではなく、党派を作り他人の口を借りて間接的に言ったりすることも含んでいます。自分の思ったことは、はっきりと自分の責任で言うことが大切です。

 パウロは以上の特徴を持つ「肉に属するクリスチャン」は、もうほとんど「ただの人」、つまり救われていないこの世の人と同じであると言っています。たしかに、教会で起きるほとんどの問題は、この「肉に属するクリスチャン」によって始まると言っても過言ではありません。


 この反対の「聖霊に属するクリスチャン」とは、どの様な人なのでしょうか?今聖別会で学んでいますアボット博士の「聖化」と言う本では、「霊的な人とは、御霊によって生き、御霊に導かれ、御霊の実を結び、歩む人である」と書かれています。

 つまりガラテヤ書5:16に書かれているように「御霊によって歩く」ということ、「御霊の力」に絶えずより頼んで生きている人が、「聖霊に属するクリスチャン」と言うことなのです。聖霊は私たちの心に働きかけ、私たちの良心や、環境の変化など様々なことを通して、神の道を私たちに示して下さいます。この聖霊の示しに従い続けていくことは、安全な道を進むことであり、またさらなる成長をもたらし、より鋭敏な感覚が育っていくのです。

 聖霊に属する人には、肉に属するのと正反対の属性が与えられます。これを「御霊の実」といいます。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です(ガラテヤ5:22〜23)。これらの「実」は、私たちが聖霊につながっているときのみ結実するものです。ちょうどトマトの実が、枝が茎についているときだけなるようなものです。この実は、なるまでに時間がかかることがあり、また自分ではなっていることに気がつかないことが多いものです。どちらかというと、トマトの実のように、自然に何となく実が結ばれていくような感じです。そして自分では気がつかないのですが、他人が先に気がついたりします。霊的な人には、このような実が結実し続けるものです。

 「聖霊に属するクリスチャン」と、「肉に属するクリスチャン」というのは、一級建築士と二級建築士のような絶対的な区別ではなく、状況に応じて移り変わり得るものです。ただし、肉的なクリスチャンから霊的なクリスチャンに移行するときにはある経験を伴います。これはガラテヤ5:24に書かれている「自分の肉を、欲望とともに十字架につける」と言う経験です。このような経験は、信仰によってもたらされるものです。

 ローマ人への手紙6:11には、「罪に対しては死んだ者と思いなさい」と書かれています。これは、キリストの十字架で、私たちの全ての罪が解決されていると言うことを信じなさいということです。この経験をまだなされていない方は是非自分の罪を十字架につけ、聖霊に属するクリスチャンになっていただきたいと思います。

Editied and written by K. Ohta on 980809