礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年8月23日

第1コリント書連講(7)

『成長させてくださる神』

竿代 照夫 牧師

第1コリント3章5〜15節

中心聖句

 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

(6節)

教訓:成長させてくださる神を信じ、各自の働きに勤しむ


導入

 先週の礼拝では、コリント教会の分派争いの原因が、きよめられていない肉的な罪の問題であったことを学びました。今日は6節を中心に、その罪の問題をどの様に克服し、成長していったらよいのかについて取り扱わせていただきたいと思います。

 今日のポイントをあらかじめ示しておきますと、「神は教会や信徒の成長において主導権を握っておられる」と言うことをしっかりつかみ、また信じることが、肉的できよめられていない状態から脱却するために欠かせないことだ、と言うことになります。

 では、「神は教会や信徒の成長において主導権を握っておられる」と言うことを捉えますと、一体どの様な変化が私たちに起こるのでしょうか?冒頭の箇所から、いくつかの点を取り上げてみましょう。


1)人間を謙遜にさせる

 「神は教会や信徒の成長において主導権を握っておられる」と言うことをしっかりと捉えることができますと、人間の功績や能力を他人と比較し、批判のネタにするようなことがなくなります。これは、神の働きを中心に捉えたときに、人間が謙遜になって行くからであります。

 5節のパウロの言葉に注目しますと、彼が実に謙遜を意識させる言葉を用いているかがわかります。ここでパウロはまず自分のことを「主の僕(しもべ)」であると語っています。しかも、主に「用いられた」と言うような受け身の姿勢の言葉を用いています。つまり彼は、自分自身がやってきたことは、僕として、主人である神の命令を忠実に果たしただけである、と言っているのです。ルカの福音書17章にも似たようなことが書かれています。ここでは、僕のたとえで、やるべきことをやって主人の前にたった僕が、「自分はなすべきことをしたまでであり、役に立たない者だ」と言っているのを見ることができます。

 ここで、冒頭の聖書のギリシャ語の時制に注目してみますと、「植えた」り「水をやった」りしていることは、短い時間で完了した、と言うような時制が用いられていることがわかります。つまり、彼らは教会のほんの一部のパートのみをやったにすぎないと言っているわけです。ところが、神についての時制は、その間中ずっと継続的に働いておられたという意味合いのものが用いられています。すなわちパウロは自らの働きは、永続的に行われている神の働きを、瞬間的に一部分お手伝いしただけだ、と言っているわけです。

 これはすでに先週もお話ししましたが、ナスやトマトは自ずからオートマチックに実を結ぶものであり、植えた者や水を与えたものはそれを助けたにすぎないのです。英語の聖書では、この部分の意味は「植えたり、水をやったりしたが、それはNothing(なんでもないもの)である」と言う非常に強い表現になっています。

 ここに教会や信徒の成長の原因として、神ご自身がいかに大切な存在であり、人間の働きがいかにちっぽけなものかを見ることができるでしょう。大切なのは、やった人間ではなく、その背後で働いておられた神様なのです。皆様方の中には、教会の奉仕でリーダーシップを取っておられる方もおられましょうが、神様ご自身が本当のリーダーであることをよく覚えましょう。

 私がこの主都教会の副牧師から仙台の教会の主任牧師になったとき、ある方が「副牧から主牧になりましたね」とおめでとうを言って下さいまいした。私は、仙台の地でリバイバルを起こしたいと考えておりましたので、まず赴任して初めての特別伝道会で、仙台教会の方が渋るのを押し切って数多くのトラクトを作製し、大量に配布いたしました。しかし、最初の晩の伝道会、次の日の伝道会、またその次日の伝道会も、新来会者はゼロでした。私はそれこそヨナの様に、どうしたものかと苦しみながら祈ったものです。

 しかしこの時神様が、私に示されたことは、「おまえはまだ副牧なのだ、私が主牧なのだよ」と言うことでした。そして、次の晩最後の伝道集会がやって参りました。この時なんと5人の新来会者が与えられたのです。この時、私は教会の働きの中心が神ご自身であること、また神に委ねることの大切さを改めて学んだのです。


2)より深い信仰に導かれる

 教会と信徒の成長は神がなして下さる、このことを信じますと、信仰がより深いものに変えられていきます。パウロの冒頭の言葉の中には、コリント教会が自分の教会であるというような思いこみは、一切含まれていません。

 この信仰に立つとき、私たちは本当に意味で神に全てを委ね、執着から去ることができます。つまり、自分は教会の中心であるとか、自分がいなければ教会はどうなる、と言うようなことを思うことがなくなります。

 このように神に全てを委ねるという姿勢は、私たちを不必要な焦りや、自分を責めるようなことから守ってくれるものです。こういう事は、教会を構成している全ての人に当てはまることです。つまり、「自分はどうしてこうも変わらず、不完全なのだろう」と焦り、自分を責めたりすることがなくなります。

 トマトやナスが自動的に実をならせる話は先ほどいたしましたが、これらのものが「自分は何が何でも実を付けてやる」と言うような感じで実を付けているでしょうか?そうではなく、これらの枝が幹にしっかりとついて入れさえすれば、後は自然に実が付いていくものです。

 このようなことは、また、子育てにも通じることです。このごろでは、子育てで悩んでいない人などほとんどいないのではないでしょうか。中には、自分の子供はどうしてこうなってしまったんだろう、自分の育て方が悪かったのではないか、と自分を責める人がいます。しかし、愛情を注ぎ、神のみことばを与えていれば、後は神ご自身が育てて下さるのです。それを知り、また信じることが大切です。 


3)人間を勤勉にさせる

 9節では、パウロは自らを「神の協力者」と呼んでいます。これは「神とともに働く人」ということで、「神とともに昼寝をする人」を意味していないことは明かです。

 パウロは「植える人」、すなわち福音をのべ伝える人であり、アポロは「水を注ぐ人」、つまりみことばを教える教育に携わる人でした。このように、私たちも教会にあってそれぞれのパートで、「神の協力者」になっているのです。この協力者は、怠け者ではありません。勤勉にしっかりとその使命を果たすのです。

 これに関係するたとえ話をします。私が仙台教会におりました頃、ある方が救われました。その方が教会に来たきっかけは、トラクト(ちらし)でした。そのときの話を聞いて、実は皆後で大笑いをしたことがあります。その方は、教会の伝道会のトラクトを、雨の中一生懸命に配っているおじいさんから受け取ったそうです。その方は、そのおじいさんがあまりにもかわいそうに見えたので、一つ教会に行ってそのおじいさんを励ましてやろうとやって来たというのです。しかし、教会に行ってその人はそのおじいさんが、想像以上若いことを発見したそうです。実は私が大変おじいさん臭いみすぼらしい格好をしていたからだったらしいのです。

 このように勤勉に神様の仕事をやっておりますと、何がどういうかたちでかは予想もできませんが、神の恵みがあるものです。たとえどの様な小さいパートでも、勤勉に一生懸命に主の仕事をしていくことが大切なのです。

 成長させてくださる主を信じつつ、勤勉にその働きを進めさせていただきましょう。


Editied and written by K. Ohta on 980823