礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年8月30日

『人間の綱、愛のきずなで引く』

井川 正一郎 牧師

ホセア書11章1〜12節

中心聖句

 私わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた。

(4節)

教訓:神の愛を知り、その愛を知らせる


導入

 月一回、礼拝説教を感謝を持って担当させていただいております。そもそも礼拝とは、人間が神様を神と認め・崇め、また神様と一つとなる為に行われる営みです。礼拝によって少なくとも、1)神様の御旨を正しく捉える2)神様の所有物を私たちのものとしていただく3)神様と一心同体となるまでに似たものとされていく、と言うことが達成されていくものです。そして、これらのことが礼拝の時だけでなく、我々のふだんの生活においても、達成されていくことが一つの目標になります。

 「罪からの回復」と言う聖書に一貫して書かれている内容が達成されるためにも、この「神様と一体化されていく」という究極的な目標を持つことが重要です。今日はこの点を中心に、冒頭のホセア書11章4節の言葉に心を向けさせていただきたいと思います。


 ホセア書には、「立ち返れ」という言葉が何度となく書かれています。ここで預言者ホセアの家庭について簡単に説明いたします。ホセヤは旧約聖書時代後期のイスラエル民族に現れた預言者です。彼の妻ゴメルは他の男のもとに走っていってしまうという罪を犯しました。しかし、ホセアはこれを許し、再びゴメルを自分のもとに引き寄せます。

 これは、神が預言者ホセアの家庭を通じて、イスラエルの民に投げかけたメッセージと捉えることができます。それは、イスラエルの民が何度となく神を裏切り、そのもとから離れて、偶像崇拝に走っていったことと関連があります。神は、ホセヤと同じように自分のもとを離れていったユダヤの民を許し、再び自分のもとに呼び寄せようとしたのです。これが、ホセヤ書に何度も書かれている「立ち返れ」という言葉や、「人間の綱、愛のきずなで引く」と言うことに結びついていくことになります。今日は、この時代の背景の学び(下記表を参照)をした後、メッセージに移らせていただきたいと思います。


分裂王国時代の諸王と預言者(紀元前931-722、586年)

年代

(BC)

北王国 預言者 南王国 両国関係・状況 区分

931

909

ヤブロアム王家

ヤブロアム
ナダブ

バシャ王家

バシャ
エラ
(ジムリ)

(アヒヤ)

レハブアム
アビヤム

アサ

分裂敵対関係

第1期

(50年)

「人の時代」

885

オムリ王家

オムリ
(ティブニ)
アハブ
アハズ(ジ)ヤ
ヨラム

エリヤ
エリシャ

ヨシャパテ

ヨラム
アハズヤ

アタルヤ

バアル教混入

姻戚関係による同盟=友好関係

第2期

(40年)

「人の時代」

841

エフー(エヒウ)王家

エフー
エホアハズ
ヨアシュ
ヤブロアム2世
ゼカリヤ

ホセア、アモス、イザヤ
ミカ

ヨアシュ
アマジヤ
ウジヤ

血の大粛正後の繁栄

(物質的繁栄)
預言活動の盛んな時期
神からの最後の憐れみと悔い改め機会。内部からでは対処不能な深い病根は完治せず。

第3期

(90年)

「物質の時代」

752

最後の諸王

シャルム
メヘナム
ペカフヤ
ペカ
ホセア

(北)
神の憐れみ薄れたかのように、預言活動が希薄になる。

ヨタム

アハズ

アッシリア

バビロン

エジプト

第4期

(30年)

「大国の時代」

722

586

サマリヤ陥落

エレミヤ

(フルダ)

(エゼキエル)

(ダニエル)

ヒゼキヤ
マナセ
アモン
ヨシャ

エホアハズ
エホヤキム
エホヤキン
ゼデキヤ
エルサレム陥落

(南)

終末努力

従来通りの刑罰や懲らしめでも十分に届かない。一切を掃討する大審判ととその語の全く新しい民による回復が必要になる。

南王国のみ(50年)

 この表に書かれている聖書の内容は、次のようにまとめられます。神の民であるイスラエルの民が神に背き、それに対して神が愛の懲らしめをしつつ、彼らの回復を願います。彼らは時折それに応じて、回復の姿勢を示しますが、やがてまたもとの悪い状態に戻ってしまいます。それでも、神はこれではどうかと、何度となく彼らの回復を求めて働きかけられます。これが、冒頭の箇所にある「愛のきずなでひく」と言うことなのです。つまり、イスラエルの民が間違った方向へ進もうとすると、愛をもって、そのくびきを取って正しい方向へとむき直させようとされたのです。


 では、何故ここまで神様はイスラエルの民をあきらめもせずに導こうとされたのでしょうか?それには以下に挙げます4つの理由があります。

1)イスラエルの民が神から遠く離れていたから

2節では「いよいよ遠ざかる民」と言う表現が用いられています。ここでは、近くに呼び寄せようと呼びかけているのに、どんどん神の側から遠い方向へ行ってしまう民たちへの思いが込められています。

2)民に近づいて欲しかったから

神様の希望は、我々人間にいつも、神と一体化する程までにできる限り近くにいて欲しいと願っておられる存在です。主と似たものとされる、と言うことは神の願いなのです。

3)神の愛の故

4節には「人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた」、3節には「それでも、わたしはエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いた」、そして8節では「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか」と書かれています。これらは何を意味しているかというと、神が愛のお方であり、我々人間を愛してやまないお方であると言うことです。その愛は一つはほとばしる「熱い愛」(「どうして...引き渡すことができようか」)であり、また「それでもの愛」(それでも、...彼らを腕に抱いた)なのです。

 本当の愛とはこのように、1)偽らない、裏切らない真実なもの(詩篇89)であり、2)最後まで見捨てない忠実なものであり、3)犠牲と献身を併せ持つものであり、4)行動に現れるものであり、また5)無条件のものなのです。このような愛は、神の御関与なくして、人間のみで達成できることはありません。

 私たちは、神の私たちへの愛が、このように最後の最後まで我々の回復を願うものであると言うことを、しっかりと捉える必要があります。

 また、このような神の愛は、必ず目に見える形で私たちに示されるものです。これは「人間の綱」という言葉で表されていて、例えばある人間が現れて我々を助けてくれたり、特定の状況によって我々に進むべき道が示されたりするものです。この一番はっきりした例が、イエス・キリストの十字架と言うこともできます。神様は、罪の深い淵の底であえぐ私たちを、自らその深い穴ぐらに入り込んで一緒になって引き上げてくれるお方なのです。

4)本当の愛を知った者に、今度はその愛を他の人に伝えて欲しいから

3〜4節では「他の人にわたしの思いを知らせて欲しい」という神の願いが込められています。つまり、神のこの愛をイスラエルの民に知らせた預言者ホセアと同じように、私たちもその神の愛を誰かに伝えていくことが求められているのです。

最後に、今日のメッセージを通じて私たちに示された実生活への適用をまとめてみましょう。


実生活への適用

1)神様と自分の距離を確認する。どの程度自分が神様と離れているかを認識することです。

2)「それでもの愛」を知り、それを信じていく。本当の神の愛を知ると、自分の罪深さが際だってわかってくるものです。

3)その愛を知ったら、今度は自分が「愛のきずな」で他の方に神の愛をお知らせする。

Editied and written by K. Ohta on 980831