礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年9月6日

第1コリント書連講(8)

『堅実な教会形成』

竿代 照夫 牧師

第1コリント3章9〜21節

中心聖句

 9私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

 10与えられた神の恵みによって、わたしは賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どの様に建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。

 11というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかのものを据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

(9〜11節)

教訓:教会一人一人の堅実な成長が教会の土台


導入

 先々週の礼拝では、6節から「成長させてくださる神」についてのメッセージをお伝えいたしました。そこでは、「成長させてくださる」と言う神様の声明は、私たちをその働きにおいて謙遜にし、信仰的に満たし、また勤勉にいたします。パウロは、教会を畑や植物などにたとえ、その成長を語りましたが、今日取り上げる箇所からは「建造物」にたとえ始めています。この「建物」にたとえると言うことには、コリント教会の「土台」が、その分派争いで危うくなっていたことが背景にあります。きょうはこの「教会の土台」について3つの角度から学んでみたいと思います。


1)教会の土台はイエス・キリスト

 10節ではパウロは、「賢い建築家のように教会の土台を据えた」と語っています。これは決して彼の自負でないことは、彼が「神の恵みによって」と前書きしていることから明かです。ここで用いられているギリシャ語のアルキテクトとは、図面を引いたりする設計者と言うより、現場で指揮を執る監督や棟梁と言うイメージが強い言葉です。

 ケニヤでは地震がありませんので、そこら辺の普通の人がごく簡単に家を建てます。私も、ケニヤで建造物を建てたことがありますが、そのときにいかに土台が重要であるかを学びました。実際、壁に亀裂が入ったり、家自体が傾いたりした土台をいい加減に造った家をいくつも見たものです。

 もう一つ言えることは、11節にも書かれていますように、土台というのは一度据えてしまいますと、二度と変更不可能であると言うことです。彼の言うところの教会の土台は、ここに書かれているとおり、「イエス・キリスト」です。しかも、キリストは私たち一人一人の信仰の土台でもなければならないのです。この土台を変えてはいけません。

 注意したのは、教会というのが、パウロやアポロと言った教会の建て上げに関わった人の「やり方」や「流儀」を土台にしているのではありません。つまり、教会の土台は人間指導者ではないのです。もう一度確認しますが、教会の土台は私たち一人一人の信仰の土台でもあるイエス・キリストなのです。

 マルチン・ルターが宗教改革をした折りにも、教会の土台に様々な人間的要素が混入していました。彼はそれを否定し、教会の土台がキリストと聖書の言葉にあることをはっきりと宣言したのです。


2)教会の建て上げは一人一人の姿勢が大切

 パウロは同じ10節で、教会を「どの様に建てるかについてはそれぞれが注意すべき」と語っています。さらには12-13節で、教会の建て上げは個人個人の裁量が認められており、また教会員一人一人の姿勢が問われ、それによって建築物の出来という結果が異なってくる、と言うことについても語っています。

 12節でパウロは教会の材料として「金・銀・宝石・木・草・わら」と言う6つのものを挙げています。それぞれに意味があるという説を唱える人もいますが、大きく分けてその後に書かれている「火に耐える」金・銀・宝石と、燃えてしまう木・草・わらに分けることができると思います。

 前者で建物を建てるのは、お金もかかりますし、また大変な手間もかかります。それに比べて後者の材料を用いれば、実に簡単に、早く建物を建てることができます。わたしはそのような例をケニヤで実際に見て来ておりますが、ケニヤでは牛などを放牧しながらその場所に家を建て、牛が草を食べ尽くすとその家を壊してまた別の場所に移動するというようなことをしています。この時は、文字通り木や土、或いは牛糞などで実にあっという間に家を建てます。

 しかし、こういう簡単に造れる家というのは、火事には弱いものです。火がやってくるとあっという間に燃えて、なくなってしまうのです。

 パウロは、もし教会を木・草・わらのような燃えやすいもので簡単に作ったら、来るべき審判の「火の日」には燃え尽くされてしまうだろうと警告しています。教会を形成する人々の信仰は、この審判に耐えられるものでなければならないのです。これはまた、教会が今後迎えるかも知れない迫害や試練に耐えられるほどの信仰を持ち合わせているか、ということにもつながります。

 信仰を持つと、もはや試練はなくなると言うのでしたら、キリスト教は御利益宗教の一つでしかありません。実際は、信仰を持っているからこそ、より一層の試練にも会い、苦難を経験したりするものです。しかし、キリスト者の神髄は、その試練にあったときに現れます。信仰が十分に強ければ、いずれその試練を乗り越え、より一層の成長を遂げるのです。

 例えば、ヨブの例があります。ヨブは、実に深い信仰を持っていた人でしたが、家や畑・家族・財産・健康の全てを一度に奪われると言う、誰もあったことがないほどの試練に合いました。この時彼には「神をのろったらどうか」というような言葉が向けられましたが、それでも彼は「主は与えられ、主は取られる」と言い、全ての信頼を主からそらすことはありませんでした。その結果やがて彼は以前にも増して強い信仰と、それに失ったもの以上の全てのものを再び手にするようになったのです。

 このヨブのように、試練の時にいつも通りの信仰を持ち続けることは、簡単なことではありません。しかし、試練の時にいらだって他人を巻き添えにするほど混乱するようなことがあっては、私たちも何のためにキリスト者となったのか、わかったものではありません。現在は未曾有の不況でありますので、大変な困難にあったおられる方もあられましょう。しかし、こう言うときにこそ神を仰ぎ、より成長したものとされるように祈りましょう。

 教会形成も個人の信仰の確立と同様に、火に耐えるようなものでなければなりません。木・草・わらというのは昨今の風潮を良く表した言葉です。これは、「安易、楽しい、即席」というeasy goingの価値観を反映したモノです。ともすると、教会もこういう現代の流れに乗って、「楽しければよい」「苦労するようなことはしない」などの安直に走ることがあるかも知れません。ある面では、こういう「楽しさ」も教会には必要ですが、それだけではダメです。また、物を人にあげて人を集める”rice church”と呼ばれるような物質に頼り切った姿勢の教会でもいけません。

 教会は、あくまでその構成する信徒一人一人が、聖書の言葉と聖霊にたった信仰を、地道に日々送ることに立脚していなければなりません。これは決して派手なことではありません。むしろ地味で時間がかかることですが、これこそが唯一教会がよって立つべきことなのです。

 理想的には、教会建築は「耐火煉瓦」のようにすでに火が通っていて燃えないような素材でできていると良いのです。私たちも「耐火煉瓦」のような教会員となれるよう祈りましょう。


3)教会員一人一人が神殿である

 16-17節ではパウロは、コリント教会員に向かって「あなた方は神殿である」と宣言しています。教会という建物は、誰が住むために建てるかと言いますと、神であり、キリストであり、聖霊であります。

 パウロはこのことを「知らないのですか?」とコリント教会の人々に問うていますが、私たちもこのことを十分自覚する必要があります。つまり、教会は「自分」が主人公なのではなく、神・み子・みたまが主人公なのです。

 どうすればそのような教会をつくることができるのでしょうか?それは、教会員一人一人が聖霊の宮となり、神殿となり、それがお互いに関連しあって教会を形作るようにすればよいのです。

 コリント第一の手紙6章19-20節でもこのことが書かれています。ここでも、信徒一人一人が聖霊の宮であり、自分の体を持って神の栄光が現されるようにしなさい、と言う勧めがなされています。自らが聖霊の宮であることを自覚したとき、もはや主が顔をしかめるようなことを、わたしたちの肉体が行うことを許していてはいけないのです。むしろ、積極的に神の栄光を現す目的に我々の体を用いることに専念するべきなのです。

 教会は、こういう神の宮である一人一人の教会員が作り上げている「建造物」です。わたしは、今の世に求められている教会は、こういう教会だと思っています。初めての方がいらしたときに、その方がこの教会を覆い尽くしている神の愛・きよさに心打たれ、神の存在を味わえるような教会にならせていただきたいと思います。


Editied and written by K. Ohta on 980907