礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

98年9月13日

愛老聖日に因んで

『次世代への宣証』

竿代 照夫 牧師

詩篇71篇5〜20節

中心聖句

 18年老いて、しらがになっていても、神よ、わたしを捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。

(18節)

教訓:年老いて行う次世代への宣証


導入

 今日は愛老聖日という日であり、70歳以上の教会員の方々に感謝の気持ちを込めてお迎えする聖日であります。この日に、冒頭の詩篇の箇所を取り上げます。

 この詩篇の最初の部分を見てください。著者が明らかな詩篇の箇所では、誰によって書かれたかが示されていますが、この71編にはその記述がありません。従って、この71篇は誰が書いたのかわからないのです。しかし、その内容を見ますと、ある長老の信仰者が残りの生涯を祈り、神への献身を新たに決意しているのがわかります。一説によるとこの箇所はエレミヤによるものだとされておりますし、また私などはこちらのほうではないかと思うのですが、晩年のダビデによるのではないかという説もあります。

 71篇はその内容から、1〜3節の私を救い出してくださいという祈り、4〜8節の自身の若い頃における神の救いに対する感謝、9〜14節の老年期にある自身に対する神の助けを求める祈り、15〜20節の神の助けを次世代へ伝える決意、そして最後の賛美の部分に分けることができます。今日はこの箇所から3つの現実について考えて参りたいと思います。


1)人生の厳しさ

 ここから学べるまず最初の現実は、人生はそんなに甘いものではないと言うことです。この筆者は人生の終末を迎えようとしておりますが、そのような年齢においても、現実の厳しさは容赦なく襲って参ります。

 9節を見ますと、この著者にも肉体の衰えというものが顕著になっていることがうかがえます(「私の力の衰え果てたとき...」)。もしこの著者がダビデであったといたしますと、彼は若いときにはそれこそ歴戦の勇士であり、常勝を欲しいままにした強者でありました。

 ところが年を取ったダビデは、非常に気弱になっていたようです。その証拠に、息子アブサロムの反逆のおりに、周囲の助けでその反乱が鎮圧され、その過程でアブサロムが殺されると、彼は反乱軍を押さえた周囲の人間を気にすることもなく死んだアブサロムを惜しんで泣いたのです。第1列王記では、彼が70才の頃活力が萎えてしまったために、よる寝るにもからだが冷えてしまい、誰かに暖めてもらわなければならなかったことが書かれています。そして、もはや自分の判断でことを起こすことができず、一番若い奥さんの言いなりになっていたのです。

 このようなことは人生の現実であり、人は皆このようなことにいずれ向き合わなければなりません。


2)環境的な現実

 現実とは厳しいもので、人間が年老いたとき、年老いた人を大切にするという理想的な環境にその周囲が必ずしもあるわけではありません。10節を見ると、年老いた著者を悪意を持って亡き者にしようとする働きがあったことがわかります。また13節では、周囲の人間が早く自分がいなくなって欲しいと思っていることが告白されています。

 では、この筆者は自分の業の故に、このような目にあっているのかと言いますと、そうではなく、むしろ多くの人に善をなしてきた人物であり、大変優れた指導者であったのです。さらに彼はまた、謙遜でへりくだりの人でもありました。こういう理想的な人物でさえ、必ずしも気持ちよい理想的な老後を送ることが許されないというのが、厳しい現実の姿なのです。


3)神の恵み・助けの現実

 たしかに、現実はこのように厳しいものではありますが、神の助けというのは、それを上回るものであります。この詩篇の著者はそれをちゃんと知っていました。

 7節で彼は、「私の人生は奇跡」と自分がここまでこれたことが奇跡であると神の助けの存在を大いに認めています。実にそれほどまでの神の助けが、彼の人生をここまで支えてきたのです。18節では「あなたの助け」、16節では「あなたの大能のわざ・義」という言葉が出て参りますが、これらはみな神の助けを現しているのです。

 神の助けと言うことで大切な点は、これらの助けを通じて、神がどの様なお方であるかが、彼に伝えられたと言うことです。言い換えますと、助けという形を通じて、神ご自身が彼に語りかけてくださったと言うことが大切なのです。

 第2サムエル記2章26-30は、ダビデが自分の晩年に、生涯を振り返って作った歌です。そこには、神が「全き方」、「きよい方」、「恵み深い方」、「高ぶるものをこらしめる方」、「曲がったものにはねじ曲げる方」などの表現が用いられています。これは、彼の人生の様々な試練のおりに、神の助けを彼が受け、その時々に神がどの様なお方であるかを神から伝えられたことに対応しているのです。

 従って、異なる人生を送る私たち一人一人は、当然違う光の当てられ方をしておりますので、神様に対する認識も一人一人違ってくるのであります。ダビデはそれ故に、自分が知った神様の恵みを、別の人にも伝えようとし、また実際そうしてきたわけです。


 最後に私たちの人生の目的について考えてみましょう。

 クリスチャンの私たちが生きていると言うことは、神から何らかの役割を期待され、何らかの目的を持っているからに他なりません。このことをまず良く認識していただきたいと思います。人間は健康管理をしているから生きながらえているのではなく、そこには目的があるから生かされているのです。

 ではそれは一体どんな目的なのでしょうか?17節では「自分は今もなお奇しいわざを告げ知らせる」、18節では「次の世代に大能のわざを告げ知らせる」と言うようなことが書かれているのに注目しましょう。この詩篇の著者は、自分はこのように老いた身ではあるが、このような宣証の大きな使命があるが故に、今もなお神に生かされているのであると語っているのです。これは我々すべてにも当てはまることです。

 次に、一体どの様な対象者に向けて宣証をするのでしょうか?それは我々の周囲の方々にです。これはどの様な状況に置いても、必ずチャンスが与えられます。例えば、自分の今までの神様との交流を中心とした略歴を書いてみても良いでしょうし、牧者に付き従って個人伝道に赴いても良いのです。

 特に、ここでも書かれているように、次の世代の方に伝えていった頂きたいと思います。世代が新しくなりますと、全く考え方が違っていて、理解されないのではとお思いになるかも知れません。しかし、そのような世代にこそ、福音や神の教えを必要としており、また餓え渇いている世代はないのではないでしょうか?年輩の世代の方も、こういう人々に伝える責務というものがあるはずです。

 この詩篇の作者は、何度となく「私から目を離さないでください」と祈っています。これは何も彼が、信仰が弱ってしまっているので、自分を見捨てないでくださいと弱音を吐いているのではありません。これはむしろ逆で、これからも使命を果たすために力を尽くすので、今まで通りついていてくださいという、積極的な祈りなのです。

 このような祈りに対する神の答えが、ヘブル人の手紙13章に書かれている「私は決してあなたを離れず、あなたをすてはしない」という言葉になります。この約束を信じ、これからの日々を、目的を持って歩ませていただきましょう


Editied and written by K. Ohta on 980913